今年の節分もたくさんのお父さんたちが鬼に扮して、
子どもたちに豆を投げつけられたことだと思います。
いまでも、こういう形で節分のお祭りが残っているのはうれしいことです。
その行事について、あるとき一つの問いが生まれました。
「鬼は外、福は内」と言って鬼を追い出しますが、
「追い出された鬼はどこに行くのだろう?」という問いです。

今までそんなことを考えてもみませんでした。
「多分そこらあたりをうろついて、また忍び込もうとする機会を探しているではないか?」
「それだったら、消滅させたらいいではないか?」
「そしたらその鬼は二度と家の中に入ってくることはないし」
と考えてしまったのです。

その問いがずっと気になっていました。

ある時、シュタイナー関係のデーブス氏の講演会に参加しました。
デーブス氏は講座の中で、二つの悪魔の話をしてくれました。
一つは、人間をどんどん物質的にして利己的にしていく悪魔、
もう一つは人間をどんどん解き放ってしまう悪魔です。
<人間の中にはこの二つの悪魔が存在していて、人間をそそのかしているそうです。
でも、大事なことはその悪魔を根絶することではなく、
二つのバランスを取ることである。
なぜなら、二つの悪魔も自分自身の一部であるから。>
と言われたのです。
「そうなんだ、悪魔は殺しちゃいけないんだ。」
「うまく付き合わなければいけないんだ。」
目から鱗です。

そして、はたと気が付きました。
「鬼は殺してはいけないんだ!」

「それじゃ、どうする?」
「そうか追い払うんだ!」
「でも、悪魔(鬼)たちは追い払われても生きていて、周りにいるから
また入ってこようと機会をうかがっている。」
「完全に扉を閉めてしまえば入って来れないけれど、
そうすると中にいる人たちは息ができず死んでしまう。」
「だから、窓の隙間は開けておく必要がある。」
「窓は見張って鬼が入ってこないように見張って居なくちゃいけないけれど、
いつも見張っているわけにはいかない。」
「でもそうすると、隙を見て鬼が侵入してきて、
素知らぬ顔をしてそこらに潜んでいる。」
「だから、定期的に鬼を追い出さなくてはいけない。」
「どうやって?」
「豆をまいて!」
「なるほど!」
納得です。

「ただ、内と外との整理をつけて、
内側から外に出してやる必要があるんだ。」
ほこり(誇り?)もそのままにしたらたまってきます。
「掃除だ」
「心の大掃除だ!」

悪いものを世界から無くしていくのではなく、
内と外の境を緩やかに付けて、
不必要なものを外に出すことが大切です。

車のごみは外へ投げてはいけませんが…

鬼は実は自分の心の一部で、
それを否定するのではなく、
どう付き合っていくか、
を考えていく必要があるのかもしれません。

私の好きな話に『貧乏神と福の神』があります。
なんと、ドイツのシュタイナー学校の子どもたちにお話をするのに
ドイツ語の日本昔話の本を読んで知ったものです。
それまで聞いたことのない話だったので、
「あまり知られていないのかも」
と思いながら、ネットで探したら結構出てきました。
いろんなバージョンがありましたが、
私が読んだものとは大きく違っていたり、
部分が違っていたりしています。
当時、ドイツ語の理解がいまいちで読み間違っていたのか、
子どもたちに話し続けるうちに
自分なりに変わってしまったのかもしれません。

私が子どもたちにお話しするのは
こんな感じです。

昔々、あるところに働き者のお百姓さん夫婦がおりました。
二人は朝早くから、お日さまが沈むまで毎日働いておりました。
でも、とても貧乏でした。
それもそのはず、お家に貧乏神が住み着いていたのです。
貧乏神が住んでいると、どんなに働いても貧乏のままです。

ある大晦日の夜のことです。
大掃除が終わり、夫婦は二人で座って「今年もよく働いた。」
「暮らしは楽にならないけれど、こうやって二人、元気に過ごすことができた。」
「ありがたいことだ。」
と話していました。
するとどこからともなく、大人の男の人の大きな泣き声が聞こえてきます。
「いったい誰じゃろう?」
「こんな大みそかの日に泣いている奴は?」
「そうだ!」
「この家の屋根裏に住んでいる貧乏神に違いない。」
「二人は、急いで階段を駆け上がると、屋根裏部屋に入りました。
すると、そこで大きな図体をした貧乏神があぐらをかいて大粒の涙をこぼしながら
「オーイオイ、オーイオイ」
と泣いていました。
「貧乏神さんいったいどうしたの?」
「おなかが痛いの?」
「頭が痛いの?」
おかみさんが訊きますが、
貧乏神は頭を横に振るばっかりです。
「それじゃ一体どうしたの?」
と言うと、
「これが泣かずにおられようか。」
「これまでわしはこの家でとても良くしてもらった。」
「ずーっとこの家にいたいんだ。」
と泣きながら答えます。
「それじゃ、ずっとこの家にいたらいいじゃないの。」
「どうして泣くの?」
とさらに訊くと、
「ところが、この家に明日から福の神がやって来るんだ。」
「だから、わしは出ていかなくてはならん。」
そういうと貧乏神はまた大声で
「オーイオイ、オーイオイ」
と泣き始めました。
すると、おかみさんが言いました。
「いい考えがあるわ!」
「福の神がお家の中に入ろうとしたら、みんなで追い出せばいいじゃない!」
貧乏神は
「そ、それはいい考えじゃ!」
「それを聞いて安心したら急に腹が減った。」
「何か食べ物はないかいな?」
と言いました。
夫婦は、ありったけのお米でご飯を釜一杯炊いて、
ありったけの沢庵を切って、
ありったけの味噌で味噌汁を鍋一杯作りました。
貧乏神はそれをたちまち、たいらげてしまいました。
(美味しそうに食べるシーンは子どもたちに人気です)

真夜中、除夜の鐘が鳴るころ、
外の扉をドンドンドンと叩く音がしました。
そして、男の人の声がしました。
「おい、貧乏神はいるか?」
「わしは福の神だ。」
「お前みたいな奴は、この働き者の家には似合わない。」
「今日からわしがこの家に住み着くからとっとと出てゆけ!」
そう言うと、開いた扉から中に入ろうとしました。
その時です。
「福の神、でてゆけ!!」
という声とともに6本の腕が出てきて、福の神を押し出しました。
福の神は、今までお家に入ろうとして追い出されたことなどありません。
びっくりして、そのまま後ろ向きにひっくり返ると、腰をしたたか打ちました。
そして、腰を抑えながら元来た道のほうへと走り去りました。

3人は大喜び!
「よかった、よかった。」
「これで貧乏神さん、ずーっとこの家で暮らせるね。」
「ありがたや、ありがたや!」
そう話していると、
貧乏神は福の神が立ち去った後を眺めながら、
「おっ!福の神のやつめ、慌てて逃げ帰って、大事なものを落としていきよった。」
そう言うと、貧乏神は道に落ちているものを手に取りました。
「これは打ち出の木槌じゃわい。」
打ち出の木槌というのは、振ると何でも望みのものが出てくる魔法の木槌です。
「ちょっと試してみようかい。」
貧乏神は
「米よ出ろ出ろ!」
ユッサユッサユッサ
打ち出の木槌を振ると
米俵がダン、ダン、ダン、と三つ空から降ってきました。
「こりゃいい!」
「味噌よ出ろ出ろ!」
ユッサユッサユッサ
打ち出の木槌を振りました。
すると、空から味噌樽が
ダン、ダン、ダン、
と振ってきました。
「よしよし」
「沢庵出ろ出ろ!」
ユッサユッサユッサ
すると、沢庵の漬物樽が
ダン、ダン、ダン
と振ってきました。

それから、貧乏神はよく考えながら、その打ち出の木槌を使い
(ずっと貧乏だったので、倹約家です)、
その家は少しずつ、少しずつ金持ちになり、最後は大金持ちになりました。
そして、貧乏神はその家の福の神として、末永く暮らしましたとさ。

おしまい。

2023.02.17 井手芳弘

つれづれ453 節分」への2件のフィードバック

  1. すてきなお話をありがとうございました。豆まきを終えてしばらくたったころに、子どもたちに『おにたのぼうし』(文あまんきみこ 絵いわさきちひろ)という絵本を読み聞かせし、聞いてもらいました。わたしが小さかった頃に読んだ本です。祝祭の折々にするお話は特別なごちそうだと感じています。もうすぐ桃の節句。お節句にぴったりなお話をまた、ご紹介ください。たのしみにしております。

    1. 及川弘子様
      コメントありがとうございます。
      つれづれ、読んでいただき嬉しいです。
      子どもたちに素敵な体験をさせておられるのですね。
      コメントに気が付くのに遅れてすみません。
      今、気が付きまして。
      今回は、小人さんの話になってしまいました、
      良かったら読んでください。
      節句にぴったりな話、温めます。

      ペロル いで

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