第41回 ハレ

いつも思うことですが(この書き出しが多いような気がするなあ)クリスマスを過ぎたあたりから、

春の日差しが射してくるのを感じます。

季節はこれから冬本番に入っていく中、光だけは先取りして春を歌っているようです。

皆さんお正月はいかがお過ごしだったでしょうか。今年はとても良い天気だったですね。

子どもの頃、ある正月の朝、小学校の校庭にやってきて、

ふと思ったことがあります「正月って、お店何処も開いてないんだ。」って。

あの、大晦日の、師走が駆け巡る晴れやかな騒々しさ、

紅白歌合戦(すみません、子どもの頃はテレビを見ていました)

と夜中の静寂を突き破る除夜の鐘の後に眠りについた、

遅い朝なんともいえないポーンと開いた空間と時間を意識するようになりました。

そして、いつしかこのなんともいえない質素さと晴れやかさがお正月のイメージになっていました。

ドイツに行って、この雰囲気をクリスマスで感じました。

クリスマス前に広場に出る市の賑いは、

大晦日のお正月用品特設売り場の良い意味での騒々しさと似ています。

そして、クリスマスイブの夜中まで続く賑わいの次に訪れる静寂のクリスマス。

全ての店が閉まり、ポーンと開いた時間。

それから、私はクリスマスに対するイメージを変えたのでした。

このなんともいえないハレの感じ、この原点とも言えるものを私は、神楽に感じました。

毎年12月の14から15日にかけて開かれる銀鏡(しろみ)神楽は

宮崎県の米良の山奥の銀鏡神社で行われる神楽です。

14から15日ということは、旧暦では満月の前の日から満月にかけて行われていたのでしょう。

今回は、16日が満月でしたから、条件はほぼ一緒です。

それは、よりにもよって、仕事のトラブルで出発が遅れてしまった14日の夜のこと、

一年中で一番高く上がる満月が、ちょうど空高く山々を、私を照らしていました。

その夜は特に空気が澄んでいて、満月間近だというのに、

周りの星々や、月の背後のおうし座もはっきりと見えました。

家も街灯もない山間部は月の明かりだけが周りを覆い尽くしていました。

こんな中を走り続けられるのも、あの場所に行ったらあの暖かさに出会える、

という思いからだったと思います。

時折ライトを消した中に浮かび上がってくるのは、

月にまんべんなく照らされた、明らかに別の世界からやってくる意識に満たされた風景。

そう、今日は月の夏の昼。全ては月の光にひれ伏す。

・・・・・・・・

暗闇の中に唯一つ輝く灯りが迫ってくる。

高鳴る気持ちを抑えながら、

車を止めエンジンを切ると、

かすかに聞こえてくる太鼓の響き。

遠くからたどり着いた時は、すでに祭りは架橋に入っていました。

この険しい山間部にこれだけの人がいるのか、

と驚くほどの大勢の人たちが、神楽宿になる神社に集まっています。

地域の人たち、親戚や知り合いの人々、それに私を含めたくさんの外部からの人間

以前に訪れたときにはなかった観覧席が舞台の向かい側に建てられ、

雰囲気はよりいっそう雑然となっていました。

それでも、奉納された猪の首が並ぶ舞台では、闇の中の月のように神楽の囃子と舞が淡々と続いていきます。

夜も当に更け、焼酎の酔いも回り、車に戻り、暖をとりながら、一眠りした朝、一面の霜と抜けるような青空。

神楽は相変わらず続いている。

 

 

振袖を着て、頭に花を付けた男の舞手がゆっくりと、伸びやかに舞っています。

夜通し白装束もしくはあさぎ色の装束を見続けた目には、この赤い色が目にまばゆく輝きます。

それは、心なしか、お風呂上りのすがすがしさに似ています。

その舞が終わり、雲(舞台の中央に高く吊るされたシデや切り紙で周りを取り囲んだ大きなワッカ)から

張られた綱にかけられていた飾りが竹ざおの先で落とされます。

休息のリラックスした中に、笑いを伴いながら、不器用にその飾りが落とされていきます。

そして以外にも、その飾りは子どもたちの冠となり、最後の祭りが休息の解き放たれた空気の中で、

お囃子もなくポーンとした開いた雰囲気の中で、

たくさんの解き放たれた笑いとともに行われます。

全ての時間と空間が止まり、全てが開かれています。

 

ハレ

それは夜通し行われた祭りの後、

朝が明けるとともに

すがすがしい踊りを伴いながら、

訪れるある休息の時間

楽師たちは去り、

張られた縄に人知れずつるされていた

飾りたちが落とされる。

それも竹の先で不器用に、

周りの人々は笑いながら、

それを見守る。

そして意外なことに、その飾りは子どもたちの冠になる。

白いふくらみを持った小振りの円錐形の冠

子どもたちはそれを頭にちょこんと載せ

舞台に神妙に集まる。

でもそれは、ある柔らかさと朗らかさを持って、

世話役の人から簡単な注意を受けると

そこに2列になって正座する。

それは、夜通し行われた祭りの後

全ては、この朗らかで、無垢な静寂のために行われたのか、と思わせるような

ハレ

二人の鬼(地霊)たちがやってきては、その持っている杖で一人一人の頭を触る

子どもたちは神妙にしながら笑う

それぞれのやり方で。

もう一方はその杖でお尻を叩く

子どもたちは身をくねらせ、笑いをこらえながら笑う

それぞれのやり方で。

鬼は、子どもたちに場所の移動を促す

子どもたちが場所を変えると

またその繰り返し

子どもたちは笑う

周りの人たちも笑う。

全ては、止まった時間の中

夜通し作られた聖なる空間と時間の中

その笑いが伝わっていく

いつの時代にも

子どもたちは未来

私たちの未来

 

2006.01.06.

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