第42回 日向ぼっこ

日向ぼっこに最適の季節になってきました。

色鮮やかな木々の葉が落ちた後の枝々が残骸のように感じられたのに、

寒風の中、期待に胸を膨らまし春を待つ木の芽に感じられるのが不思議です。

何かが変わっていったのでしょう。

私は、憑かれたようにてたのでしょう。

いずれにせよ、ドイツでシュタイナー教育と

アントロポゾフィー(人智学)に触れてよかったな、とつくづく思います。

そうでなければ、ただの日向ぼっこと夜歩きが好きな

偏屈親父になっていたかもしれません(ひょっとすると、実はそのものだったりして)。

いつか、書いたかの知れませんが、

いつも立ち返るのは「物質的なものを徹底的に追及すれば精神的なものに行き着き、

精神的なものを徹底的に追求すれば物質的なものに行き着く」というR・シュタイナーの言葉です。

物質的なものの中に精神性につながるものがある、というのはとても嬉しいことです。

物質的なものを素直により素直に、そのものをそのものとして出会い、

理解していく中で、何か高いものと出会えるような気がします。

今の自分が肯定されるようでとても嬉しいです。

また、自分が寄り日本の精神的なものにより近くなった感じがするのも嬉しいです。

ドイツできっかけをもらった木の観察、天動説的な天体の理解、

光と影の観察と捉え方、季節の流れと人間の魂とのかかわり、内的な世界と外的な世界の呼応、etc.

すべてが、これまでの自分の身の回りの、もしくは中の世界の理解に役に立っています。

全てが、一つの全体性を持って関連付けられていくのがなんともいえません。

とは言え、生活はまたいつもの日常に戻ってきました。

教室と店とこのつれづれ書き込みと、めまぐるしく時は過ぎていきます。

何とか流れにさおを指さなくっちゃ。

光は、「日向ぼっこ は いかがですか! 日向ぼっこ は いかがですか!」と誘っている。

そう、そんなに長くやらなくてもいいじゃないか、ほんの数十分付き合ってもいいじゃないか、

おあつらえ向きに、室見川がすぐ近く、

冬の朝の光は全てを掃き清めたように世界を晴れやかに照らす。

たどり着いてみると、しめしめ川の水が引いて川底が出ている。

早速、カメラを担いで降りてみる。意外や意外、なんともしっとりしっかりした感覚。

気をつけなくっちゃいけないんだよね。

「もう何にも新しいものない。」と思って少し油断して、

「カメラなんか要らないや、めんどうだもん。」ってカメラ置いてくるでしょ。

それを見計らったように、とんでもないことを目の前に展開させてくれるんだよね。

そして、私は呆然として、ただそれを見ている。

そして、思い知らされる、お前が知ってることなんてほんのちっぽけなことさ、

うすっぺらいやつめ、って。

そして嬉しさがこみ上げる。

ああこの、水の色の変化がたまらない。

すでに意識が変わってきている。

呼吸が変わってきている。

物質的な半乾きのマットな地面に、

いろいろなものを映しこむ水が波のリズムのアクセントを伴いながら沁み(浸み)入る。

少しずつ水が満ち始めている。

水をかぶった地面の穴という穴から気泡が子気味いいようにポッポッポッと吐き出される。

水面を眺めているうちに、見つけた。

星、光の星、十字の星

星たちが、私の目の前を流れていく

私は夢中でカメラを構える

次から次に流れていく星たち、いったいどこから?

ああ、なんとあの泡が発生源だったんだ、

ただ、泡を吐き出していると思っていたら、

あれって星の製造機じゃん!

こんなこと、ひっそりとあわただしく(泡だたしく?)人知れずやっていたなんて、

なんてこった。

ポッポッポッ

水がきたぞ!

さあ急げ!

遅れるんじゃない!

ポッポッポッ

ああ忙しいたらありゃしない。

水がひたひたひたと

私たちの上を流れる間に

ポッポッポッ

私たちの仕事は、泡作り

あっちのお家、こっちのお家

いたるところで競って泡作り

ポッポッポッ

さあ作れ

やれ打ち上げろ

俺たちは星の製造者

星が消えるぞ!

打ち出せ!

まだ、まだ、自分の身の周りさえわかっていない。

私の足元は深い、私の周りも深い。

2006.01.20.

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