梅雨が明けてまばゆい日々が続いています。
今年の梅雨明けはあまりにもドラマチックで、ほとんど楽しむ間もなくやってきました。
ものすごい雨がやってきた後に、パッと開けた感じです。
それは、ティンパニーの太鼓がフィナーレで鳴り響いた後、
余韻を楽しむ間もなく、アンコールもなくパッと灯りがついた感じです。
そういえば、夏の始まりなのに、なんだか終わりのような物悲しさを感じていたのは、
夏の終わりのころの気候に似ていたからかもしれません。
それにしても、夏の影の中に潜む寂しさをより強く感じるようになった今日この頃です。
それにしても不思議なのは、どうしてこの時期に影が気になり始めるか、ということです。
周りの影が急に濃くなるのでしょうか、それとも私の中に影を感じる意識が急に芽生えるのでしょうか。
せみまでが、暑さより影の濃さの寂しさを染み入らせているようです。
<今、眺めてみたいもの。
広い広い高原の山すそにまだらになった雲の影が濃い青色になってゆっくりと動くところ。>
<不思議だと思うもの。水。大地の上にほんの少しのっているだけで底に永遠の窓を生み出す。>
考えたら不思議だよね。
水面を眺めていると、ともするとすぐ下に底があることを忘れてしまう。
そして、意識はその底よりずっとずっと深くまで到達する。
これって四次元的な感じがするよね。
水の色合いも不思議なのですが、やっぱり不思議でならないのは光の色です。
火曜日の夕方、いつものように教室の後、ある授産施設を訪ねます。
そこの方に当店の仕事を頼んでいるからです。
その部屋の窓辺にカーテンがかかっていて、
得もいえぬ紫色の光がカーテンの隙間から射して来ているではありませんか。
何の光だろうと思って眺めてみると、窓の外の明かりでした。
「窓の外からこんなに美しい灯りが射してきているんだ。」と思うと、急いで外に出てみました。
でも、外の空や周りのどこにも紫色を見つけることは出来ませんでした。
夕暮れの部屋の中に出来る影が、時々やはり美しい紫色に染まることがあります。
そういえば、高校のころよく窓にかかった白いカーテンに朝日が当たるのをぼーっと眺めていました。
窓の桟の影が紫色に染まっていたことを今でもよく憶えています。
ドイツの教員養成所で先生が補色の実験をしてくれました。
それは、単に赤の補色として緑が生まれるだけではなく、
グレーの色の後にブルーが見えてきたりと、それまでの補色に対する考えをまったく覆させられました。
そして、今まであまり意識することのなかったかすかな色合いに対する感覚を目覚めさせてくれたと同時に、
色がまったく分からない得体の知れないものになってしまいました。
それから、長い年月を経て、ジェームス・タレルの光の館にたどり着きました。
そこでは、光や残像の色合いの不確かさや深さを体験させてくれました。
皆さんよかったら体験ツアーに参加しませんか。
そのような微妙さは夕方の雲にも時々訪れます。
このような光景に遭遇するといつも思います。
ただ暗闇の中に輝く太陽という白い光が水蒸気や水滴、
氷片を含む色のない空の空間に差し込むだけのことなのに
こんなに多彩なものがどうして生まれるのでしょうね。
2006.08.04.