前回直島の自己研修について書く、と言っていましたが、
そうこうするうちに美しい月食が現れ気持ちはすっかりそちらのほうに奪われています。
とりあえず、直島での体験の報告をします。
前回訪れたときは、南寺という安藤忠雄氏が設計した建物の中に
ジェームス・タレルが作った暗闇の世界にほのかに輝く体験をしました。
そのときには、光を求めるということが、これほど根源的な懐かしい体験で、
心を打つものなのか、と驚きとともに深い体験をしました。
それは、まさにイニシエーション(成人式、元服式、秘儀参入などと訳される)と言う言葉にふさわしい体験でした。
今回再度訪れて体験したのですが、残念ながら前回のような体験ができませんでした。
たぶん、人が多かったこと、そこのガイドの説明に従ったからだと思います。
たぶん、前回のような体験ができたのは、ある意味幸運だったのだ、という事がわかりました。
(体験の内容に関して詳しいことは述べません、
それは、これから訪れる方に、何かを探すという行為を奪ってしまうからです。
今回訪れたのは、地中美術館です。
こうやって書きながら、
前回訪れたときもすでに地中美術館はあったのではないか、と言う気がしてきています。
そこには、ジェームスタレルの作品が三つ、
モネの大作が一部屋に三つ、
それに、もう一人の作家の大きな一部屋を占める作品が一つありました。
もちろん目的はただ一つジェームスタレルの作品です。
本来、いろんなことに気が散る好奇心旺盛な私が、
ジェームスタレルだけでいい、と思い切るのはかなりの惚れ込みようだ、とつくづく感心してしまいます。
でも、それだけのものがそこにあるんですよね。
残念ながら、光の館とは違って全館撮影禁止なので写真をお見せすることはできません。
さて、一つは、壁の角に投影された光が立体的な直方体、もしくは立方体(サイコロの形)に見える、というもの。
もう一つは8名ずつ入ることのできる、大きな青い光に満ちた空で
(そこに入るときは入り口に青い壁があるように錯覚してしまいます)、
中に入ると、さらにおくに青い壁があるけれども、
実際は壁ではなくその先に空間が広がっていると言うもの。
さらには、光の館の構造と同じように、天井に四角い穴が開いたコンクリートの部屋。
「この下に光の館のように畳が敷いてあればもっとくつろげるのだけど。」と、
ついつい光の館をひいきしてしまう私です。
ただ、利点は、雨が降っても開き続けているので、天気に関係なく空を眺められること、
それと、昼間、好きなだけそこに居続けて観察をすることができることです。
何度見たことだろう、この四角い開口を。
しかし、ずっと気になっていたこと、それは風呂敷現象(?)。
そう、光の館を体験した誰もが感じる、四角い窓、というよりも、
天井に青い、もしくは紫の風呂敷がはられているように見える現象。
しかし、今回は雲のたくさんある、さらには彩雲までたち現れている昼間の空。
風呂敷がスクリーンに進化して、そこに空が映っているように見えていました。
なぜ、風呂敷、いやスクリーンのように見えてしまうのか。
このことが気になりだし、長いこと考えました。
四角い開口部の縁がとても薄いのは一因しています。
なぜだろう、なぜだろう、と考えた挙句、はたと気がつきました。
<この空が平面だと言うことに気がついていなかったのです。>
私たちは、400m以上先にある対象物に関しては、立体視できない、
つまり平面に見えていると言うことを、ことあるごとに、人々にさんざん言っていたのに、
別の現象になると、まったくお手上げです。
「そうか、この切り取られた窓から見えているものは、立体感のある空ではなく、ほんとうは平面の空なんだ。
空に奥行きがあるように見えている、ということは実は頭で作り出したことなんだ。
だから、平面のスクリーンのように見えてしまうのだ。」
不思議な感覚の謎が解けた喜びとともに、今
度は、空は平面なのになぜ立体としての実感を感じるのだろう、
と今度はそちらのほうが不思議になってしまいました。
うーん、やっぱりタレルはたくさんのことを考えさせてくれる。
想像することの中には、実際にはそこに存在しているけれども見えないことを想像すること、
それと実際にはそこに存在していないことを勝手に想像することの二つがあるんだよ。
このことをはっきりとわかっておいてほしい。
できれば、私は、実際にはそこに存在しているけれども
見えないことをたくさん想像できるようになりたいのさ。
2007.09.07.