色合いが去っていった、しかしそこに生まれてくるのはすがすがしい青。
正月明けにいつもの海の側を車で走る。
冬の鉛色の空といぶし銀のような曇りの天気に内的に鎮められながら。
眼前に広がるのは、ブルーグレーのちょうど生藍で染めたような淡いブルーグレーの海と
何とも云えず清楚に青く輝く島々。
その輝く青は年明けのすがすがしさと落ち着きと高貴さを持ち合わせたような青。
その青は、確実に自分の心に沁みてくるのがわかる。
そして、自分の心が清楚なものに触れたような言いようのない心を洗われる心地よさを感じる。
色彩は感情である、という言葉を思い返す。
車をいつもの場所で停めて、砂浜に降りる。
おもむろにカメラを取り出し、その青をとどめようとする。
もちろん、それが撮影できないことは分かっている。
微妙な色合いを写真に収めようとするときに、それが全く再現されていないことに気付かされることが多い。
目の前に存在するものを心に沁みわたらせることしかできない。
しかし、この青は不思議な青だ。
本来暗い場所が受動的な影の青として存在しているはずだが、
この青はそれを通り越して青い光のように積極的に輝いている。
これは何の輝きだろうか、と考える。
その輝きは背後の山の色というよりも、
<手前に広がる空間の色合いである>ということを思い起こさせられる。
暗闇(影)をバックに光に満たされた空間が生み出す青。
空間を色として認識することはあるだろうか?
ゲーテは色彩論の中で色彩の原現象について述べていて、
<背後に闇があり、手前に光に背後より明るい濁りのある空間があると、
その空間を通してみた背後は青くなる(書き加えあり)>と語っている。
例えば、晴れた日の空が青く見えるのは、宇宙空間の闇の背景の前に明るい濁りのある大気の層があり、
その大気の層を通して闇の空間を見ることで青く見えると語っている。
逆に、濁りのある暗い空間から背後の明るいところを眺めると黄色から赤に変わるということでもある。
もはや、眼前に広がる世界には確実な色というものは存在しなくなる。
それは、空間の位置関係で色合いが変わるとても不確かなものである。
そこにあるものは本来その物がどういう色合いを持っているであろう、という要素、
それがある光を受けることによって生み出される色合い。
それが手前の空間の濁りによって変化させられる色合い。
物と光と光を含んだ濁りのある空間。
これらのものが関わり眼前の色合いを生み出している。
それは、複雑でとても不確かなもの。
それでは、私たちは、なにも確実なもの(色彩)を掴むことができないのだろうか?
多分、それらの全ての要素を知ることが出来たとき、そこに起こる不確かな現象から、
全ての要素の関わりを見て取ることができるようになるに違いない、と私は考える。
それにしても、この目の前の青はすべてを通り越して心に深く沁み込んでくる。
2009.01.09.