色合いが去っていった。
後にはすべてをはぎ取られた木の枝だけが残っています。
そこには色合いはすべて取り去られモノトーンの静止した塊だけが存在します。
その枝が夕暮の空を背景にシルエットとして浮かび上がるとき、
その形態はとても興味深いものとして私たちの目の前に突如姿を現します。
葉に導かれながら、周りの光の世界を一生懸命に追い続けた日々の蓄積が、葉を無くした今、
あるフォルムとなって現れます。
そのフォルムは周りの空間と時間の流れを一つに集約した鏡のようなものだ、と思います。
しかし、その形体が様々な多様性を持っているのに驚かされます。
同じような課題に取り組んだのに、木によってそのフォルムにそれぞれの個性が表れてきます。
そして、そのどれを眺めていても、それぞれに美しいと思えてくるからとても不思議です。
そのフォルムをよく観察していると、そこに二つの要素がかかわっているのがわかります。
それは枝分かれの方法と枝わかれから枝分かれまでの枝の長さです。
あるものは三股に、あるものは二股に枝分かれをしながら、
伸びていく中で、その形の特徴をつけていきます。
違う木をそれぞれ別々のものとして考えないで、同じもののバリエーションだと見たときに、
それぞれの形の中にみなぎっている力というかパターンというものが見えてくるように思います。
私たちがそのフォルムを認識するときに、
私自身の内的な力の全体がその形になることで形を認識しているのではないか、
と私は考えています。
自分自身をそのフォルムに添わせることで、私の中にある意識が生まれるように感じます。
全てのものが取り払われて、あたかも死へ向かっているように感じさせる中で、
その先にあるすがすがしさはどこから生まれるのでしょうか。
それは、周りの空間やお日さまの光を通り越して、
宇宙全体の永遠の空間に枝先の意識が向かっているように感じるからではないかと思います。
宇宙に向かっている枝先のそれぞれには、新たな年に開く新たな芽を携えています。
その芽の一つ一つには、これから先、
成長していくであろう未来の姿が目に見えない力の源として蓄えられています。
光の射す冬枯れの木々の中を歩くときに感じる高貴さはそういうところから生まれてくるように思います。
2008.12.19.