花の季節が過ぎ去り、後には緑の若葉が風に揺れています。
あたりは光の粒を含んだ五月の風が吹き抜けています。
花から始まり、葉の成長と毎日の変化はとどまるところを知りません。
この日々の変化の中で、たくさんのものたちと出会います。
それは、私の中の新たな自分と出会うことでもあります。
今、気になっているのは花と葉のことです。
木々は、秋から冬にかけて成長を芽という点にこめてじっとしています。
春先になって、一つの芽からは花が生まれてき、もう一つの芽からは葉が生まれるという具合です。
どの枝のどの芽から、花が出、葉がでるか、ということはとても微妙なことで、
観察すればするほど、その表現に驚かさせられます。
このことを考え始めたのは、桜の枝を観察し始めたときでした。
桜の花は必ず枝の突端には葉っぱの芽がつきます。
そして、それぞれの枝に応じて、勢いのある枝にはほとんどが葉の芽がつき、そ
れほどでもない枝には花の芽がついていきます。
しかし、観察をする中で、どこに葉芽をつけ、どこに花芽をつけるか、
ということははっきりとはしておらず、枝の突端以外、
どちらにでもなれる要素をはらんでいる不確定なものなのだ、ということがわかります。
そして、葉と花を全く別物と考えずに、
その姿や動きをお互いに同じものから派生したものとして辿ることでそれぞれの特徴が見えてきます。
しかし、その微妙さの中での判断はその後にとても大きな流れをもたらします。
花芽として開いたものはその後世界に対して自分自身を開ききった後、
それ以降の外的な成長をせず、種という自分とは違う新たなものを生み出します。
それに対して葉芽になったものはその先端をずっと葉として、枝として延ばし続け、
大きな一本の木になることさえできる。
一つの花(桜の場合は3〜5個)と一本の大きな木と同じ価値を持つ、
と考えるととても不思議な気がしてきます。
そして、その木にどのように花芽がつきどのように葉芽がついているかを観察することで、
その木全体としてどのように勢いを持っているかをイメージすることが出来ます。
この前、あるいけばな展に出かけ、梨の花を見る機会がありました。
梨の花を今までじっくり見る機会がなかったので、ああ、梨の花って、
桜とはこんな感じで違うんだな、フムフムと見ていました。
そして、あるべき枝の突端に、葉芽がついていずにそこには花芽がついているのに気がつきました。
梅も、桜も、桃も、全て枝の先端には必ず葉芽がついているのに、梨にはついていないのです。
桜の仲間は全て先に葉芽をつけると思っていた私はその前で立ち尽くしてしまいました。
葉としての勢いを持った枝先の梨の花は芽の中に7個ほどの花を宿していました。
これはツツジの花の付いていない枝の部分です。
たくさんの枝で一つの花を作っているようにも見えます。
生まれたて若葉たちは、時として花の要素を持っています。
でも花のことをよく見ていくと、葉としての要素もたくさん含まれているのがわかります。
それぞれの要素が花や葉の中にどのように現れているかを見ていく中で、
花的なもの、葉や茎的なもののイメージが育っていくように思います。
桜ばかりを観察して、葉芽か、花芽か、ということを考え続けていると、
このような全く違う二つのものが混在しているのを見るととても不思議な感じになります。
これはシャクナゲの花が終わったものです。
茶色に見えるのは花びらが枯れたものです。
カールした針のように見えるのはめしべの先です。
めしべは花が枯れても生き生きとしています。
ましてや、枯れた後から本当に活動を始めたりします。
花の終わったそばから新しい新芽が勢いよく伸びています。
それぞれの花に応じて、新芽が全く入っていないもの、
新芽と花が混在しているもの、新芽だけのものとバリエーションが豊富です。
これらは一緒になって、一つのつぼみの中に入っています。
このようなこともありなのだ、と思ってしまいます。
自然界は私たちが考えるよりはるかに自由でユニークです。
2009.05.01.