207 山本作兵衛さんの絵を訪ねて

先日山本作兵衛さんの絵が展示してある

田川市の石炭・歴史博物館に行ってきました。

不思議な絵を描かれる作兵衛さんの

絵の全容が知りたくて、

その図録がある博物館に行ってみようと思ったわけです。

山本作兵衛さんはずっと炭鉱夫として

働かれた方で、その傍ら、

たくさんの採炭の絵を残された方です。

その絵がユネスコの世界記憶遺産に選ばれたことで、

大変な脚光を浴びました。
それで、私も知ることになったわけです。

その絵には不思議な雰囲気があり、

昔のどさまわり歌舞伎の雰囲気というか、

キツネが出てきそうな昔の絵、の雰囲気というか…、

その方がほかにどんな絵を描かれたのか、

ということを知りたかったのです。

田川の街は五木寛之氏の青春の門の

舞台となったところで、石炭の町として栄えたところでした。

福岡県の中に存在する盆地の街で、

何とも懐かしい感じのする場所です。

特に秋口に懐かしさが倍増する感じです、

なぜだか分りませんが。

私が行ったことのないところでもあります。

グーグルの地図を眺めつつ辿り着いた

博物館は広い敷地の中にありました。
駐車場に辿り着いてまず驚いたのは

駐車場整理のガードマンさんが立っていることです

地方の博物館でしかも平日なのに、

駐車場はバスや車で埋まっています。

人もたくさんいるので、ガードマンの方々も大忙しです。
これも、作兵衛さん効果なのか、と思いつつ博物館の中へ…

中は、団体の方々でごった返していました。

二階の展示室も、人だかりで

ゆっくり絵を見ることもできないほどです。
そこには、作兵衛さんの絵が

十数点飾ってあり、当時の写真も飾ってありました。

下に降りて、作兵衛さんの図録を見せていただき、質問をしました。

 

炭坑節の歌の発祥の地であるらしいこと。

「…あんまり煙突が高いので

〜さぞやお月さんけむたかろ さのよいよい」

と歌われた煙突は何のためにあるのですか?

と質問すると、地下にリフトを下ろすための

動力としての蒸気を発生させるために

石炭を燃やすための煙突だった、ということでした。

近代の石炭の掘り方を見た後、

精巧にできた機関車のミニチュアを見ていると…
「これ、よくできとるでしょ。」と話しかけてくれたのは、

先ほど、職員の人が

「この炭鉱のことをよく知っている方だ。」

と言われていたおじいさん。

やった!とばかりに、

次から次に質問を(機関銃のように)させていただきました。

その質問にその方はとても丁寧に答えていただきました。

その結果わかったことは、

英彦山のおひざ元の静かな盆地に突然石炭発見の嵐が訪れたこと。
みんなこぞって、至る所で掘り始めたこと。

大手もあれば、本当に小さなところもあって、

至る所で好き勝手に掘られたこと。

特に中小のところでは炭鉱夫は

素性その他は問われず雇われ、

荷物も風呂敷包み一つのことが多かったこと。

採った量で賃金が決まっていたこと。

作兵衛さんの絵は、

自分の子どもの頃以前のことを絵にしていること、

等、いろんなことを教えていただきました。

知らなかった石炭の事をたくさん知ることが出来ました。

とういうのも私自身も炭鉱の町に生まれ住んでいて、

小学校一年生の時に炭鉱の閉山があって

クラスの子どもたちの半数以上が引っ越していった

体験していたので、身近なことでもあり、

自分自身は何にも知らなかったのです。

博物館を出ると広い敷地の中の

博物館に隣接する場所に列車の一両を模した売店があり、

そこからノスタルジックな音楽が…

 

60年代の音楽が流れる売店は

地元の商工会が運営していて、

そこには地元で頑張ってる商店の方々が働かれています。

 

「どこから来られたんですか?」

他のところではあまり聞かれたことのない質問を、

たびたびされました。

今まで他の地方から人の訪れることのなかった場所へ、

日本各地から人が突然やってき始めた現状があるんだ、と思いました。

作兵衛さんの最後の言葉

「さよならはいらない。作兵衛バンザイ!っていってくれ。」

アンディー・ウイリアムスのクリスマス曲が流れる中、

空には大きな、大きな虹が出ていました。

遠くから来た人も、ここにずっと住んでいる人も、

この地を祝福するかのような虹を立ち止まり眺めていました。

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