まだ、好天の暑い日が続きます。

7月に雨ばっかりの申しわけに、

ここまでいい天気にする必要はないだろうに、

と思うような日々です。

いつもの夏なら、あの催し、この催しと

催し狭しと梯子しての日々ですが、

今年の夏は、新型コロナの影響ですべての行事がキャンセルになり、

かといって、

それじゃ、山だー!海だー!と開放的になることもできず、

夏の開放的なまばゆい風景までも、

どことなく、すっきりしないような感じがしてくるから不思議です。

そうこうしているうちに、気が付いてみると9月になっています。

未消化な感じと残暑で頭の中と心の中はウニのように

ボワーンと溶けていっているようです。

それでも、ペロルへの通勤や仕事上の移動に車を走らせることは多く、

美しい夕焼けの風景に出合うことがあります。

先日、店からの帰り道、夕暮れごろに鳴き砂の浜に寄りました。

ここは海がとてもきれいなところで、歩いていると砂が鳴ることから、

この名前がついています。

砂が鳴くためには、砂がとてもきれいなこと、

花崗岩に含まれる石英などの珪酸成分の鉱物の砂で、

適度な粒の大きさであること、

などの条件が必要であること、

などと聞いたことがあるように思います。

上から夕闇が帳を下ろしていく中、

水平線の所は地球映でとてもきれいな青紫色をしています。

隣にパーキングができるまでは、とても幻想的な場所だったのですが、

いまでも散歩するにはとてもいい場所です。

最近、砂が鳴らなくなっていたのですが、

この日はキュッキュッといい音を立ててくれました。

多分、このところの猛暑で砂がカラカラに乾燥したからなのでしょう。

昼間の暑さも和らぎ、心地よい風が吹いています。

パーキングの下の波打ち際では

三人の若者たち(多分)がシルエットになって戯れています。

こんないい場所に人がいない、というのは田舎の利点です。

なるべくパーキングの灯りと人から離れ、

闇に紛れながら、砂に腰を下ろします。

手で触れると、昼間の熱がまだ残っています。

そのまま、横になってみると、

波の音に、いつの間にか、眠ってしまっていました。

目を覚ますと、

木星が明るく輝いていました。

佐賀から久留米にかけては広大な佐賀平野が続いています。

そのまま有明海につながっているので、

まるで、どこまでも続く地平線のようです。

そこに、巨大な入道雲が立ち上っています。

その入道雲の底に向って車を走らせているので、

いよいよ、飲み込みそうな勢いです。

地面の近くは真っ暗でところどころ景色がかすんでいます。

多分、そこは夕立が降ってるのでしょう。

時々、稲妻が走ります。

雲の先端はほとんど私の頭の上に到達しています。

よく、入道雲をエベレストの山々に

見立てて楽しむ遊びをやっていたので、

それをやると、なおさら、この世のものとは思えないような

あまりの圧倒感に気を失っていきそうです。

あまりのすごさに、現実感をなくし、

私たちの世界で起きているものではなく、

何か、別世界の映像か何かが映っているようです。

明石海峡大橋を見た時もそんな感じでしたが、

人間は、理解できないものを見ると幻のように感じてしまうのだ、

と思います。

まるで、神々たちの世界が私たちを見守っているようです。

2020/09/04 井手芳弘

つれづれ394 なんだか9月」への2件のフィードバック

  1. 井手先生、鹿児島のどんぐり自然学校の神田です。
    ときどき「つれづれ」見ています。
    今回の「つれづれ」も、何だかいいですね。
    井手先生の観察と、その表現とが、何ともいいからでしょうね。
    先生と一緒に、自然の中に浸っている感じがしました。

    1. 神田 悟様
      つれづれ、ご覧いただき、ありがとうございます。
      また、おほめ頂き、嬉しく思います。
      ずっと以前、霧島でやった観察会が懐かしく、思い起こされます。
      心地よい日差しになってきましたね。
      日々深まっていく秋をお楽しみください。

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