そう、それは山間の道を車で走っているときのこと。

曲がりくねった細い道を降り、谷間の渓流にかかる橋を渡り、右に曲がった。
すると道のわきに一軒の小さな家があり、
そこにいる一人の男の人が目に留まった。
背筋をしっかり伸ばした初老の男の人は、
手に榊(サカキ)のような緑色の枝を持っていた。
多分、どこかへお供えするためだろう。
周りには家一つない場所での一人でのつつましやかな暮らし。
私の目にはそう映った。
まるで、最後に残って、その土地を護っていこうとしている守り人のようなたたずまい。
「いったいどこに捧げるのだろう?」
「あの緑の枝を?」
私は、先の道路が広くなった場所で車を停めると、歩いてその家に向った。

家に近づいてみると、その人の姿はなかった。
「仕方がない。このようなコロナの時期でもあるし、
無理に会って、いやな思いをさせるのも申しわけない。」
「コロナが収まったら、お土産でも持って訪ねて行こう。」
「また訪れるには遠いところだが、いつか…」
なぜ、それほど気になったのかは分からない。
多分、消え去っていくであろう世界の中で生き続けてきた人の話を聞き、
その世界を共有したかったからなのか…

あれから、いつかは訪れよう、と思いながら1年半ほどたったある日のこと。

そちらの方向に出かけた時に、意を決して向かうことに。

記憶をたどりながらグーグルナビで調べてみると、
その場所まで1時間ちょっとの距離だ。
ドライブするには天候が今一つすぐれないが思い立ったら向かうしかない。
近くのお店でお土産を買うと、
ナビを頼りに出発した。

山間の道を走りながら、
どう挨拶をしよう?
なるべく、変に思われないようにするためにはどうしたらいいだろう?
などと考えていた。

目的地の近くになると、いよいよ道が狭くなり、大きな工事現場が見えてきた。
工事用の車が何台も道のわきに停められていた。
その谷あいの家の上には大きな橋を架ける工事が行われていた。
橋が架かると、いよいよその谷あいの道は忘れ去られる運命なのだろう。
辺境の山に包まれた中から永遠につながるこれまでの世界が、
橋の開通で表にさらされ、干からびて、忘れ去られていくのだろう。
それは、仕方のないことだ。
道路が広がり、便利になっていくことは良いことなのだろう…

最後の細い曲がりくねった急坂を降りるとその家があった。
「やっと来ることができた。」
前回と同じ場所に車を停めると、
その家に向って歩き始めた。

ポツポツと雨が降り始めていた。
胸を高鳴らせながら、玄関口にたどり着いたとき…
中に、人の気配がないことに気がついた。
「いない!」
「外出しているのか?」
家の周りを見てみると、そこにあった植木鉢の中の植物はすべて枯れていた。
「遅かった!」
「どうして、待ってくれていなかったのだ。」
「もっと早く来ればよかったんだ。」
「いやいや、コロナのせいで無理だった。」
いろんなことが頭の中で駆け巡った。


家の周りを歩きながら、何ともあきらめきれず、今度は橋の方に向かう。
橋からの川の眺めは見事というほかはなかった。
聖なるものが宿っているかのような場所だ。


そしてその家は崖に張り付くように
壮大なコンクリート基礎工事の上に建てられていた。
「彼は、川の守りなのか?」
こじんまりとした平屋の家に見えたその下には広くて大きな地下一階があった。
「大きな家だったのだ。」


また道を返し、家のそばを通りながらふと思った。
「それにしても、あの老人はあの緑の枝をどこに捧げようとしたのだ?」
車へと道を戻っているときに、右横の崖の場所が目に留まった。


そこは崖の岩が四角く彫られていて、花と緑の枝が供えられていた。
「ひょっとしてここへ?」
「いやいや。こんな場所のはずがない。あまりに粗末すぎる。」
そう思いながら、近づいてみると、花瓶の花は造花だった。
「それじゃこの緑色の枝も造花だろう。」そう考えながら、一応試しに触ってみた。
すると、それは本物の葉の手触りだ。
ペットボトルを切って作った粗末な花瓶には水が入っている。
「彼はついこの前までここに枝を供えていたのだ!」
「何日ぐらい経っているのだろうか?」
確かめるために、その枝を引き抜こうとすると引っかかって抜けない。
他の枝をおさえて何とか引き抜いて愕然とした。


その枝の下には、びっしりと白い根が長く伸びているではないか?
なんと、その枝たちは枯れずに緑色の葉を携えながら生きていたのだ。
「いったいどれだけの日数ここに差してあるというのだ?」
「彼はここに供えるためにあの枝を用意していたのか?」
「この場所は彼にとってそれ程大切な場所なのだろうか?」
いろんな問いが浮かんできた。

そして、もう一度驚いた。
なんと、その場所には石像がなかったのだ。
「前からなかったのか?」
「いやいやそんなはずは…」
「それでは、彼が持って行ったのか?」

車の中からペットボトルの水を持ってくると、
花瓶の中に水をなみなみと注いで深々と頭を下げて手を合わせた。
石像のない、その場所へ。

後ろでは川の流れの音が絶え間なく続いていた。

2021/11/05 井手芳弘

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