人はそれぞれ気になることがあるか、と思います。

私の場合、その中の一つに、
時々訪れることがあります。
まわりを見ている時に
「この見えている世界は本物だろうか、それとも網膜に映った像なのだろうか?」
という問いです。

これが気になりだすと、ほかのことが考えられません。

そもそも、前に見えている景色が網膜に映った像だとすると、
これはさかさまなのか?

子どもの時に、目のレンズに像がさかさまに映っていると知った時は他人事で、
「そうなんだ!」と思っただけでした。
大人になって、
「自分の見ているこの景色は逆さまなんだ!」と気が付いたときは、
なんだか、無重力状態に浮いているような妙な気持ちになりました。

最近になって、あることに気が付きました。

「逆さまに見てるってことは、逆立ちした状態だよね?」
「でも、待てよ、それぞれの目が逆立ちしたら普通に逆立ちしているのと違うんじゃない?」
「ということは右目で左側を、左目で右側を見てるってこと?」

気になって、解剖学の本を開いてみました。
「な、なんとそこには右目と左目から出た神経が途中で交差している図が描かれているではありませんか!」
目からうろこどころではありません。
右目と左目がぐちゃぐちゃに絡み合ってしまいそうです。

中学校の理科の教師をしたことのある私は
「学校で誰もこんなこと教えてくれなかった!」
と他人のせいにしています。

図をよく見ると、
右側で見たものが左側で見たものと合わさり、
右側で見たものの右半分が左側の右半分と合成され…
頭がウニになっていきます。

「それにしても、考えてもわからないような構造をよくぞ神経さん、頑張って作ってくれたね。」と、
驚きと感謝がミックスした感情がわいてきます。
<右目の横を押すと見ている像の左側が暗くなる>とどこかに書いてあったので、やってみると確かにそうなりました。

話を本題(?)に戻します。

私が見ている世界が単に網膜に映っているだけだとしたら、その像は球面の一部のはずです。
だって、網膜って眼球の内側にありますから。
ということは…
私は網膜の眼球の内側から映った像を見ているのでしょうか?
でもそうすると…
内側から見ると網膜に映った像は鏡像(鏡に映ったように左右逆転、裏返し)になってしまいます。
思考停止状態です。
でも、いずれにしても広い世界をこの目の中に閉じ込めているのは確かです。
そして目の中に閉じ込められた世界の像を広い世界として感じられているのは不思議です。

以前、シュタイナー学校教員養成所の授業で、先生は<人間は半球状の頭蓋骨を持っているから、世界を半球状に認識するのだ>と語っていました。
だから、昔の人は本能的に、
世界をドームの内側として認識して、そのドーム(天蓋)に星を貼り付けていたと認識していたのでしょう。

でもその考え方は現代でも世界を考えるときに使われています。

小学校や中学校で太陽の動きや星の動きを考えるときに、透明な半球を描き、
その中に東西南北と自分の位置を描き、
その半球上で太陽を動かします。
不思議なことに、見ている人の世界を外側から見るのです。

これで太陽の動きを整理して考えることができます。
まるで世界を封じ込めているようです。
でも、中にいる人にとってその半球は半球ではなく果てしなく広がる世界として認識されています

洞窟に入って暗闇を体験したことがあります。
明かりをつけていた時は狭い空間でしたが、
電気を消して真っ暗闇にしたときに、
洞窟の天井は消え、
遥か彼方に広がる世界を体験することができました。

ドームの内側を青空の色にしてしまえば、
ドームが消えてずっと広がる青空が見えるのではないか、
と考えています。

全く違った体験をしたこともあります。
ジェームス・タレルの<オープンスカイ>というインスタレーションで体験しました。
建物の天井が真四角に切り取られ、空が見えていましたが、
どう見ても窓にスクリーンが張られているとしか感じられませんでした。

身の回りの世界は不思議なことだらけです。

2022/10/21 井手芳弘

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