いつの間にか、年も終わりに向かっています。
草も木々も整理されて黄色から茶紫のトーンに包まれ、その間を光に満ちた乾いた風が通り抜けていきます。
草たちは、光に撫でられてボーっとしながら物思いにふけっています。
遠い昔のころを思い出しているかのようです。
冬至に向かって日々、暗がりに向かっています。
と、思っていたのですが、
「暗がりが明けたかな?」
という実感が年々早まって来ていて、
今年は11月の終わりごろに訪れてきました。
「なぜ?」と考えたのですが、
そのヒントはなんと、日食の体験にありました。
屋久島で皆既日食を体験したときのことです。
残念ながらその時は曇っていてお日さまを見ることはできませんでした。
ここらあたりにあるだろう、と想定しながら皆既日食になる時間を待ちながら、写真を撮っていました。
当たりが暗くなっていく変化に、
シャッタースピードを遅くしていくのが追い付かないくらいでした。
太陽を確認できないまま、皆既日食の予定時間を迎えました。
「もっと暗くならないのだろうか?」と思っていると、
突然、
「おしまい!」
という感じに、明けてきました。
あまりにあっけなく、
「お開き!」という表現がぴったりな感じで。
張りつめていたものが急にはじけたような…
後で、あれは何だったんだろう、と
考えました。
かなり考えました。
そして、結論がでました。
「そうか、だんだん暗くなる時って、
その前の明るさに目が慣れているから、
暗くなるとよりその暗さを感じるんだ。」
「ちょうど、明るい外から室内に入ってきたときのように。」
「それに対して、明るくなっていく時って、
その前の暗さに目が慣れているからより明るく感じるのかも?」
「ちょうど、暗い室内から明るい外に出たときのように。」
「だから、同じ明るさでも暗くなっていく時と、明るくなっている時は
感じ方がちがうんだ。」
そう考えて、急に明るくなった訳を理解しました
それで、一つ解決したのは、夕方と朝方雰囲気の違いです。
「同じように赤い太陽が山の上に出ていても、
夕暮れは次第に暗くなっていくことでより暗く感じる。」
「それに対して朝方は同じぐらいの位置に太陽があっても、
次第に明るくなっていくので、より明るく輝くように感じるのだ。」
ということで納得しました。
また、
「秋口は日々早くなっていく日没の変化から、
より暗くなっていく夕暮れを意識する。」
「それに対して、
春は日々早くなっていく朝の明るさを、より明るく感じるのではないか。」
と考えました。
で、ですね、
かなり話を引っ張ってしまったのですが…
ここからが本題です。
最近気が付いたのですが、
11月の後半ごろから冬至に向けてほとんど日没の時間が変わっていないのです。
ということは、「秋の夕暮れは日々早くなっていて、
その日々の明るさの変化を感じ、暗さを感じていた。」
「ところが、
11月の中旬ごろから日没時間の変化が弱まりほとんど変わらなくなった。」
「暗くなっていく変化に慣れていた自分の意識が、
変化が止まったために、明るい方に転換したように感じたのではないか。」
と想定した訳です。
ちょうどスキーのジャンプ(やったことはないのですが)に、似ているような気がします。
<斜面は下に下降していくけれど、
最後の方の勾配を緩やかにすることで、
降りていっているのに飛んだように感じる>感覚です。
やったことはないけれど。
それで、12月の初めにすでに、
闇が明けた感じがするのかもしれない、と考えました。
同じように、6月の初めごろに、
すでに秋への転換を感じてしまうのかもしれません。
なんだか、回りくどい話になってしまいましたが…
要するに、今の時期の光の当たり方は日向ぼっこに最高です。
すべてのものが原初に帰り、
新たに生まれてくる世界を希望とともに待ち望んでいるかのようです。
最近、講座で祈りのオイリュトミーについて取り上げました。
その中で、祈りとは何だろうということについても考えました。
それはたとえば、
一本の樹が目の前に立っていて、
そこに優しいお日さまの光が射しかけている風景があるとします。
空からは、今この瞬間に降り注いでいる光だけでなく、
これまでにこの木を大きくしてきた光や風たち。
そして、夜に降り注いできた星や月たちの存在があります。
目の前の樹を通してそこに降り注いでいるまわりの宇宙からの光(太陽も宇宙にある)を実感する瞬間、
一点と周囲全体との関係性をつかんでいる瞬間、
それが祈りなのではないか、と考えました。
まあ、要するに、そんな場所が大好きだ、ということです。
日向ぼっこがした~い!
2022/12/16 井手芳弘