310 春を待つ

最近忙しくて、

なかなか山を見に行くことが出来ません。

山が切れて禁断症状を起こしそうですが、

何とか我慢したいと思います。

とはいえ、

家から福岡まで通う道すがらにも

山あり海ありで風光明媚なところです。

何より、素晴らしいのは

人がほとんどいないということです。

都会に住んでいる人には考えられない贅沢です。

風光明媚で人がたくさんいる場所より、

それほどでもないけど、

人のいない場所の方が

はるかにいいメディテーション(日向ぼっこ)ができます。

家のすぐそばにも

人のいない小さな山や川はあるのですが、

どうも地元の目が気になって

落ち着かないので、避けています。

冬の楽しみは葉の落ちた木の枝を楽しむことです。

ドイツで、木の観察を学んでから、

それぞれの木の枝が

どのように成長していくのかを考えるようになりました。

そして、いろんな枝の成長の仕方に目が向くようになりました。

そんな中で、

いろんな木を見ているうちに

それぞれの木の枝ぶりに

特有の表情があるのに気が付き始めました。

それは、言葉で表現するのが難しく、

それぞれの枝ぶりの雰囲気

と表現するしかないようなものです。

「雰囲気」という言葉では表しきれないものを、

Stimmungというドイツ語で表現するのは、

より正確な気がします。

その場に張りつめている“何か”という感じです。

嵐の前の雰囲気、

霧が張った静寂な雰囲気、

夕暮れの雰囲気、

とかそんなものに近い感じです。

もちろん、

言葉で表現しようとする努力は必要なのですが、

今の私にはまだ力不足です。

いっそのこと、

一つの木の枝ぶりをある情景を表す詩として表現したいくらいです。

そういうことを考えていると、

ボッケミュールさんのワークに出会いました。

それは、

葉が落ちた枝から雰囲気(Stimmung)を感じる

というテーマでした。

そこではその雰囲気は

枝ぶりにあるのではなく、

私たちの中で生み出しているものである、

と書かれていました。

その言葉はとてもいいヒントになりました。

これから、このことについてさらなる発見がありそうです。

ボッケミュールさんの書かれたワークを学ぶ中で、

目の前の風景を認識するときには、

私たちの内側の力がたくさん関わっている、

ということを知りました。

春前の枝ぶりはたまりません。

枝先から、春の香りがにじみ出てきて、

あたりに充満しているかのようです。

それは、風の流れが止まった、

夕暮れ時に強く感じることがあります。

一度、オランダの美術館で見たゴッホの絵が、

いまだに印象に残っています。

それは、アーモンドの枝に咲く花を描いたものでした。

そこに漂う空気の香りは、

まさに私が感じていたものでした。

それも、より生き生きと。

ゴッホはすごいな、とその時本当に思いました。

美術館で、その絵の複製を購入しようとしましたが、

本物とのあまりの違いに驚き、

複製を買うとこちらのイメージになってしまう。

とやめてしまいました。

今は、その時の雰囲気が残るだけです。

冬枯れの木の枝に花が咲き、

葉が茂る様は、それまでの雰囲気とは全く違うものです。

それは、まるで宴のようでもあります。

幻のようでもあります。

夢のようでもあります。

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