そう、それは田植えのシーズン
私は、実は家に田んぼがありまして(6反ほど)、
ほとんど母親がやっているのですが、
田植え、稲刈り、薬かけなどは私も手伝うことになっています。
子供のころはいやだったなー、家と田んぼが学校の側だったので、
親や祖父に連れられて、リヤカーに鍬や鎌を積んで
田んぼや山に手伝いに行かされたりしていました
(「お前はほかの農家の子どもとするとあんまい手伝いばさせちょらんほうぞ。」母の声)。
それで学校のみんなに見られるのが、ものすごい劣等感でした。
僕の(ここでは僕)恥ずかしいところ、みすぼらしいところ(標準語?)を見られるようで。
大学にいって親元を離れても、この重さは続いていて、
「いつも何にもなくて自由に楽しめている人たちって幸せだろうな。」と羨ましく思っていました。
大人になって、日曜なんかに田んぼを手伝っていると、
目の前が国道なもので、レジャーの車が数珠つながりになって、
楽しそうで、何で僕ばっかりが(いまだに自分のことを僕と呼んでいる)こんなことをしなきゃならないんだろうか。
いろんな楽しい夢を描いても、現実に立ち返らされてしまう。
それは、楽しくはしゃぎながら水面を眺めてしまった醜いアヒルの子状態になってしまうわけです。
こういうことで、私のひねた、劣等感あふれる自分自身が構成されていった田んぼですが
(ある意味自分の謙虚さの元にもなっているのかもしれません)、
それを克服すべく(?)いまだに関わっていますが、悲しいものがあります。
というのも、わたしは、いろんな世界に首を突っ込んでいるわけです。
例えば、教師の立場、都会の人々の立場、店の経営の立場、
田舎の稲作りの立場、稲作りでも、無農薬推進派の人たちの立場、普通の農家の立場、
いろんな立場を見てみると、それぞれに正当な言い分があって、
何が正しいのか、ということが分らなくなってきます。
まるで、クラスマッチで応援しているクラスが正義の味方で、敵は悪の手先に見えてしまう。
でも、敵(?)のクラスの人たちは、私たちが正義の味方と思っている味方のチームが敵のチームとして、悪の手先なんだろうな、なんて思うと複雑になってしまいます。
敵のチームに好きな人がいた日には、裏切りの背徳感もまじって、超複雑な気になります。
今の、我が家のような大半の農家の農業というのは、ほぼボランティアといっていい感じです。
田んぼを所有している以上、維持させるために、ほかの誰もやらないし、昔からやっていたので、
利潤度外視でただやり続ける、ということで続けられているようです。
その田んぼを草ぼうぼうの土地にはしておけないのです。
神様とご先祖様と周りの皆様に申し訳が立たない、
年寄りにとっても何か仕事があったほうがいい。てなわけです。いずれ淘汰されて、
(誰もこの問題を考えようとしないし、忘れ去られているので)
近い将来これらのものは確実になくなっていくことでしょう。誰知るというわけではなく。
それらの人間的なもろもろのドラマとはまったく関係ないところで、
水は息づいて、色づいていた、ということに私はつい最近気がつきました。
考えてみると、たった数日のうちにすべての田んぼに水が満ちるということは不思議なことです。
それまでは、北国的な乾燥した風景が続いていたところに、少しずつ水が染み入り始めるとともに、
カエルのざわめきがどこからともなく始まり、景色はとたんに南国の熱帯的な様相を帯び始めます。
そして瞬く間に一つ、また一つと田んぼに水が満ちていき、
一つの巨大な湖が現れてきます。それから、苗が植えられるまでの一年のうちで数日間、
そこに空を深く深く映しこみます。
水面のことを最近よく考えることがあります。
観察していけばいくほど、水面と人の心が似ているな、と思わされるからです。
水は、自らを他のものを通して明らかにする。反射する外の世界と、
透かしてやってくる水の中や水の底の世界、
それらの二つが風によって生まれる波に混ぜ合わされていく。
それはあたかも私の心が、私の周りからやってくるものと
私の中からやってくることが折り合わさって生まれている、
ということを暗示しているかのようである。
世界は、しかしそんなに単純ではなく、
これらのものが複雑に折り重なって様々な現象を生み出しています。
このことを書いていけば一冊の本が書けそうです。
私のモットーとなっているR・シュタイナーの言葉に
「物質的な世界を徹底的に追求すると精神的な世界につながる。
精神的な世界を徹底的に追求すると物質的な世界につながる。」というものがあります。
本当に、目の前の世界に目を向けて興味を持ってみていけば、
様々なことが見えてくるように思います。
皆さんが興味をもたれているなら、おいおいこのつれづれでも折に触れて書いていこうと思います。
ここでは詳しくは書いていけませんが、
興味のある方はらせん教室のホームページをご覧になり、
らせん教室の通信のバックナンバーを買ってお読みください。
そこに少し詳しく書いてあります。PRでした。
最近悪くないなーと思うことがあります。
母親から「いつになったら草を切るとか。」とがみがみ言われて、
「へん、草なんかまだ伸びとらんだろがー、まだ後で切ってよかとに。」といいながら、
しぶしぶ草刈機を担ぎ、夕暮れの田んぼに行って、周りの帰宅途中の車や、
道を散歩する人を尻目に、半分やけになって、
でも機械の操作には細心にブイン ブインと草刈機を振り回します。
そのうちに、だんだん心が静まり、入道雲の美しい色合いのことを考えたり、
講座の新たなヒントが生まれたり…。
2004.06.18.