そうこうしているうちに、夏がやってきました。

昔は梅雨明け宣言が気象庁より早かったのが自慢でしたが、

最近は、できるという雑念に曇らされてしまって混乱していました。

でもあきらめかけた今年、ふと夏のにおいを感じました。その日が梅雨明けの日でした。

来年は無心になれないと思うのでわたしの梅雨明け宣言は無理でしょう。

 

ところで、今年は例年になく早く夏になりうれしい限りです。

それというのも勝手な話ですが、数年前から夏について新たな感覚を持ったので、

そのことを確かめる時間がたくさんあることもうれしいです。

もちろん、子どものころから夏休みというのはとても楽しいもので、

蝉の鳴き声とともにその懐かしさが想いかえされます。

でも、最近、この夏の蝉と懐かしさの感覚は、深い影の中にあるような気がしています

(夏になった今、なんとなく意識が影のほうに行き、そこはかとない深さと静けさを感じる)。

それは、丘陵を歩き、汗をかき、大きなパラポラアンテナの影の下で

大の字に寝っころがってしまったからでしょうか。

それは、長い距離を走り終え、下を向き汗のしたたるままにまかせて、

自分の息と鼓動だけを聴いている感じにも似ているし、

最近では、スエットロッジ(アメリカ先住民のサウナのやり方)のあと、

外の自然に触れた感じにも似ています。

—白い雲がやけに輝いていたなあ—

—意識は多分あそこにあったんだろうなあ—

そう、夏というのは秋の日差しと夏の暑さのミックスが絶妙な感覚を生み出すのだろうと感じていて、

それを確認したい感じがあります。

それも、R・シュタイナーの書いた魂の暦(『らせん教室通信』参照)から季節のイメージを学んだこと、

光がまず変化する、という考えを学んだことによります。

40歳を過ぎるまでついぞたどり着かなかった考えです。

 

さて、問題を出していました。

その答えは、水面に映る岸の草原です。

ヒントは、画面左上に水の中から草が顔を出していました。

水面に何か映っているといってくれた方もいらっしゃいました。

よく見るとアメーバーのような、丸が変形した物体の中に草の像が見られます。

不思議なことに、水面の波は全てのものを丸く囲う性質があります。

福岡市の南区にある溜池で、天気のいい日曜日に撮りました。

走っていると、太陽の反射したきらめきが、キラキラしながらついて来てくれた、

鮮やかな、輝く、まさに〈日〉曜日でした。

考えてみると、つれづれといいながら結構固まってしまっていて、

光オタクのページのようになってしまっています。

でもわたしが結局皆さんにわかってほしかったのは、わたしたちが普段見ているものが

実はまったく違ったものとしてみることができる、ということなんです。

そして、気づいてほしかったのです。「わたしたちの身の回りも捨てたもんじゃない。

すぐ目の前に不思議な世界が広がっているんだ。」って。

そういう意味で水面というのはとにかくふしぎな物です。

この写真は、曇った日の海の水が少し濁っている水面です。

曇った日の水面は特にではどんよりと、一見まったくきれいでもなんでもありません。

でも、意識を変えて、濁った水面だという先入観を捨てて、

反射だという意識を捨てて(結構集中と時間がかかります)、その色合いだけに意識を向けると、

とたんに極彩色の絨毯が現れます。

でもその時には、水面が反射している感じや波が立っている感じがなくなってしまいます。

そして、ただただ、その色合いに見入ってしまうのです。

 

わたしたちは、反射というものの見方によって、本来そこにある色が見えなくなっています。

それは常識的な物の見方によって、本来あるべき姿が見えなくなっている状態に似ています。

確かに、常識は日常生活を安心して送る上で必要なことですが、

自分が見えている世界と違う世界があるかもしれない、

というやわらかい考え方を持っていただけたら、

見るという行為が、単に受身の行為だけでなく、積極的なものでもある、

ということを理解していただけたら、新たな世界が広がるかな、と思います。

わたしたちの眼前に広がる世界は無限の情報を含んでいます。

わたしたちの中にイメージできたものが、一つ、また一つと明らかになってきます。

このありきたりの水面の中からも、たくさんのことを見出すことができます。

今度の日曜には東京に行き、子どもたちや大人の方たちと活動してきます。

今までのような話はこれくらいにして、違う話題に移りましょうかね。

 

2004.07.16.

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