第15回 虹の中心を探しに行こう

だんだんと自分の時間がなくなってきました。

もともと自分の時間などは無くなってしまっていました

(その割には写真など撮っているな、と思われがちですが)。

ますます、無くなって追い立てられています。

とうとう、行く場所も、近くの海岸に限られてきました。

 

もともと、何がしたいとか強い目的があったわけではなく、

やりたいことといったら日向ぼっこぐらいだったのですが、

今考えると結構贅沢な時間をすごしてきたんだな、と思うことがあります。

引きこもりの問題がよく話題に出ますが、

日向ぼっこをやっていた私の場合もひょっとすると、

軽い引きこもりだったのかもしれない

(引きこもりはそんなもんじゃないとお叱りを受けそうですが、)と最近思います。

全く周りから閉ざされた場所に行っていたわけですから、

ただ違う点は室内ではなく野外だったこと、

電灯の光の変わりにお日様の光だったこと、です。

調子が悪くなると、そういう場所に行きたくなります。

とても調子が悪いと、月の日向ぼっこをしたくなります。

大体において、太陽を直接見るよりは、

光が当たっているところを眺めてボーっとすることが多いです。

 

シュタイナー教育やゲーテ的な自然科学に出会ってよかったな、

と思うのは、このころの思いが何だったのか理解でき始めている点です。

ボーッと眺めていた光の反映や影が

いったいどういう意味合いを持つのかということが分かり始めています。

この写真は私がいつも話している

<虹の輪の中心にあるのは自分の頭の影である>

ということを実際に写真に取ろうと試みたものです。

残念ながら、虹全体は出ていなかったのですが、

ちょうど太陽も射していて、私の頭の影もはっきり出ています。

写真の右側の島の近くに虹が出ているように見えます

(虹の場所の特定はとても難しく、遠くに存在しても、

近くに存在していても見掛けの大きさは全く変わりません)。

その虹のかけらを想像でつなぎながら、

その輪の中心を探すと、なんとやはり私の頭の影ではないですか。

風が強い日防波堤の突端で波が防波堤に砕けてそのしぶきが一瞬虹を作っています。

やはりその輪の中心には頭の影があります。

<そう、やはりこの虹の輪の中心は私の頭の影だったのだ。>

なんとも楽しいことではないですか。

外の世界に広がる虹の輪の中心が自分だったなんて

いつのころからだろう。

自分の存在がそんなに無駄ではないかもしれない、と思い始めたのは

そう、それは虹の現象に出会ってから、

それも、少しずつ、少しずつ紐解かれていったもの。

自然は、こちらの語りかけに対して答えるもの、

決して自分から無駄なおしゃべりなんかしやしない。

じっとこちらを見守ってくれて、いつでも答えようと身構えてくれている、

涼しい眼をしたやさしい存在。笑っているのか、すましているのか、

物思いにふけっているのか、見つめているのか、わからない。

 

<世界はバラバラに存在しているけれど、光はそれを一つにまとめている。

その中心は、光を投げかけるもの、もう一つの中心はしかし、光を受けるもの、私。>

もしこのことが、わかったならば、

もう世界の中で、自分が無駄な存在だなんて誰も考えやしないだろうに。

外の世界を克明に眺めた先に、このような世界が存在しようなどとは考えもしなかった。

恐れるな。現実の世界を直視することを。

その力を、現実の世界の奥の奥まで届かせろ

そこに存在しているのは、物質だけではない。

そこには、光も存在しているのだ。

支離滅裂ですみません。

 

虹を始めとして、色彩の現象は自分自身と周りの世界との関わりを示すものです。

ずっと、虹についての絵本を出したいと思っています。

その中に、いろんなものを込められたらと思っています。

さあ、オタクの追求だ。

…やっぱ、フェチよりオタクという響きが好きだな。

 

2004.12.03.

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