第17回 冬の日ざしの下で

冬の楽しみは、葉を落とした木々たちとの出会いです。

それまで葉の衣に覆われ、身体をそよ風でゆすっていた木たちは、

その衣を脱ぎ(うう・・・寒そう、よりによって冬に)自分の身体を透かせていきます。

夏の間うっそうとした森でベンチまで遠いと感じていたのに、

葉が落ちてみるとすぐ近くにあるように感じたことがあります。

なんと森全体が透けて見えるようになっていたのです。

木々たちは、今度はその身に直接光を浴び始めます。

それは何だかとても心地よさそうに見えます。

それは、体の髄を日向ぼっこさせているような。

きっと、思っていることでしょう。

「これまであった事なんて、本当はたいしたこと無いのさ。

もっと、気持ちを大きく持って本質に戻ってやっていこうじゃないか。」って。

そういいながら、木々はその体と枝々を太陽の光で白く反射させていました。

そんな木々を見ていて、いつの頃か何だか不思議な気がしてきていました。

何だか木の枝々の反射が一つの模様に見えてきていたのです。

大体、新たなことに気がつく時ってこんな感じなんです。

何だかわからないけれど、何か変な感じがして気持ちが治まらない(いい意味で)、

何ともいえない胸騒ぎを感じてしまい、

何でかな、何でかな、って考え始めるのです。

それがはっきりしてきたのは、この日向峠の桜の木たちのおかげでした。

 

ある晴れた冬の日の午前中にこの峠を車で走っていたとき、

はっきりと枝の反射のパターンが見えてしまい、

あまりの美しさ(当人はこれがやけに美しく見える)に

運転がおぼつかなくなってしまいました。

よくよく眺めてみると、木々の枝の反射の一つ一つが集まって

一つの同心円を描いていたのです。

そして、その同心円の中心にはまばゆく輝く太陽がありました。

不思議なことに、自分が歩いていくと太陽は木の枝の後ろを移動し、

その同心円もそれにつれて場所を変えていくのです。

考えてみると本当に不思議なことです。

木の枝はてんでんバラバラに生えているいるわけで、何の秩序もありません。

その枝に光が反射しているわけですから、何の秩序も生まれそうにないのですが、

現実というのは不思議なもので、光の反射だけが一つの秩序を作っているのです。

(そうか、てんでんバラバラな私たちもお日様の光を反射することでつながっているんだ)

それから、この峠を越えるのが楽しみになり(元から楽しみなんだけど)

何度となくこの情景をながめては堪能しました。

 

それから、いろんなところに行ってはこのパターンを探すのですが、

それほどはっきりと表れているのを見ることはありません。

これもなぜかなーって考えて何度か峠に足を(車を)運ぶことになるのですが、

実はその秘密はその背景の暗さにあることに気がつきました。

別の桜の木の写真なのですが、

明るい空の背景の前にある枝が単なるシルエットの枝なのに対し、

その下の背景が暗い前の枝には太陽を中心とした

同心円の反射の輝きが見えるではありませんか。

実は、この峠の桜の木の背後には山が迫り、山には光が当たらず、

手前の桜の木にだけ光が降り注いでいる為に、

暗い山の背景に桜の木の針のような枝の同心円がはっきりと見えていたことに気がつきました。

このことに関してもっと詳しく知りたい方は、

らせん教室のバックナンバー2004年度版を読んでください。

<ううむ、自然とは、現実とは何とこのように複雑なものよ>

<光は必要なくせにその背後には暗さが必要だとは>

ううむ、思い出してしまいました。

前回の煙の話につながっていました。

煙が青く見えるためには煙に光が当たり、背後に暗いバックが必要でした。

煙もひょっとして同心円を描いているのでしょうか、見えないけれど。

そういえば、ゴッホの絵にも太陽の回りに同心円が表現されています。

ああ、眠れなくなってしまいそうです。

仕事が出来なくなってしまいそうです。

でも、何だか元気と勇気がわいてきそうな気もします。

そう、それは静かに雪の降るある夜のこと、

身体を丸め歩いていたときに、

ある一本の木の隙間から街灯が見えました。

その木は街灯に照らされ、

その枝の反射が街灯を中心に円く同心円を作っていました。

それは、あたかも光の卵が木の枝の輝きの巣に包まれて安らいでいるかのようでした。

それから私はこの現象を、光の巣篭もり現象と呼ぶようになりました。

2005.01.07.

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