このシュツッツガルトの町には初めてのシュタイナー学校があり、今でもたくさんの子どもたちが通っています。そこにシュタイナー学校教員ゼミナールがありユーゲントゼミナールのあるエンゲン(人口5000人弱)からシュツッツガルト(人口50万人?)に出てきたときはとても都会に感じたものでした。シュツッツガルト一帯は、ベンツ、ポルシェ、などの車や、ジーメンスを初め弱電、家電など、さまざまな産業が発達した場所です。駅の屋根の上にベンツのマークがどっかりと載って回っているのは有名です。
昔はゾーリンゲンの刃物で有名なルール地方が産業の中心でしたが、炭鉱の閉山その他でいまや産業の中心はシュツッツガルト一帯に移ってきた感じがあります。
しかし、産業の新たな中心地であるだけでなく、シュタイナーのことに興味を持っている人たちにはなじみのある町です。最初のシュタイナー学校を初めとして、たくさんのシュタイナー学校、オイリュトミー学校、病院、教員養成所、キリスト者共同体の教会など、シュタイナー関係の中心地の一つでもあるのです。
ペロルさんのお宅は町のはずれの住宅地の中にあります。ドイツの町は周りを広い森で取り囲まれているのですが、その森のすぐそばにお家があり、時間があるときはいつもその森を散歩しました。
ペロルさんのお家は3階建てで、半地下もあるので、計4階建てです。地下にオイリュトミスト(オイリュトミーをされる女性の方)3回には私たち夫婦が間借りをしていました。
ペロルさんは、シュタイナー学校の初めての生徒で、5年生(?)から編入されたそうです。「R・シュタイナーが前で話をしていたのを覚えている。」と語ってあり、化粧品を初めさまざまな容器販売の会社を運営する傍ら、このシュタイナー学校の理事として、始終話し合いに参加されていたように思います。また奥さんとともに学校の生徒たちの音楽会、演劇、その他の催し物があるたびに出かけられていたように思います。ほとんどシュタイナー学校とシュタイナー思想の中に生きられていたように思います。でも、何一つ説教がましいことを言うわけでもなく、普通の人として私たちに応対してくれました。
この写真は食卓で玄関を入って左に曲がったとことにあります。寒い日も、暗くなった日も玄関前で靴をとんとんと鳴らし土や雪を落とすとその前を通り、階段を登っていきました。あるときは誰もいず、あるときはペロル夫妻、あるときは孫たちが座っていました。
ここで、時々お茶に誘われて、一生懸命なれないドイツ語を話していこともあります。
今は、私の中の心象風景として深く心の中に残っているものです。