意識がドイツに行っているうちに、いつの間にかわたしの身近に春がやってきていました。
春の楽しみはいろいろありますが、わたしにとってはこの白モクレンの花が特別な感じがします。
たぶん、心までもが吸い込まれるような青い空にこの白い色のコントラストがたまらないのでしょう。
あたかも目に見えない光を意識するかのように、
白鷺のように反射し透き通る羽を羽ばたかせるように立ち上げる様は
見事としか形容しようがありません。
人は言葉で表現できないようなものを見たときに、
より高いものの存在を感じるのかもしれません。
—この花を見上げたときに、
自分の気持ちがはるかかなたの土地に飛ばされるような気になるのはなぜなのだろうか—
でも、それだけではありません。
わたしはつくづく植物の観察をやってよかったなーと思うわけですが、
その中の一つが、一年間に伸びた枝の長さを調べるということでした。
(観察のことをより詳しく知りたい方は、「シュタイナー教育的子育て」を読んでみてください。)
傍からまず眺めて、今度は部分の中に自分を没頭させます。
そうしてそれぞれの部分と知り合いになって、また全体に移っていきます。
昨年の春のことでした(?一昨年かな?、ひょっとすると数年前?)。
白モクレンと出会って、初めてこのことをやってみたのです。
そしてモクレンの枝の先端に花が付いているのに気がつきました。
花を付ける、ということはそれから先の成長をあきらめる、ということでもあります。
桜の木は常に伸びる主の枝の先端には花をつけません。
木の芽をつけることでどんどん成長していきます。
桜に親しんでいた私には、
枝の先端に花をつけるこのモクレンのやり方がどうしても理解できませんでした。
おいおい、そんなにきっぱりと先に花なんかつけていいの?
それから先不安じゃないの?
桜みたいに横に花をつけていかなくてもいいの?
それは余りにもあっけらかんとしていました。
そして、気がついたのです。
その花の下の左右(少しずれて)に二つの芽が付いていることを。
そう、モクレンは花を咲かせることでその枝の流れを少し戻しては、
二つの方向に変えていっていたのです。
ああ、こんな成長の仕方のあるのだ、
毎年花を枝の先端につけてはその方向を二つに分けていくというやり方が。
よくよくそれまでの根元の枝振りを眺めてみると、
常に二つに分かれる動きから出来ています。
それがモクレンの枝振りにジグザグ感を与えていました。
笑いがこみ上げてきました。
<天から降り注いできた光に向かって地面の中から伸びていき、答えていく>
というとても単純な命題にたいしてこのように違った答え方があるのだ。
モクレンはよりによって毎年自分の方向性を変えながらこれに答えているのだ。
そのイメージは先ほどのモクレンを全体的に眺めていたときの
イメージを壊すものでは決してありませんでした。
ただただモクレンが身近に感じられました。
それから、それぞれの木がこの命題をどのようにこなしているのだろうか、
ということが気(木?)になりだしました。
その後で、いろいろな木と出会いました。
そのほとんどは華やかではないために全く意識にさえ上っていなかった名前も知らない木たちです。
このことを繰り返す中で、それぞれの木が命を持った一つの個である、
と感じるとともに、とても大きな世界とのつながりを感じたものでした。
…ちょっと感傷的だったかな?
……春が悪いんだよね…
2005.04.15.