第27回 海の散歩でのつぶやき

 

カメラが戻ってきました。

それまで、前のカメラを使って取ってみましたが、

液晶ではやはり雲がぼけているかどうかが分かりません。

別にカメラの宣伝しているわけではありませんが、あらためて一眼レフのすごさを思い知りました。

それで、久々カメラを持って海の散歩に出かけました。

肩に斜めにカメラを下げ、左手には望遠レンズを持ち、という幼稚園児の登園風景、

もしくは昔のおじいさんの観光地でカメラを下げて歩く姿さながらのかっこ悪さ

(すみません、ひどいこと言って)。

とても若いときはできなかったのですが、この年になったおかげか、

ヒッチハイクその他で恥ずかしい思いに慣れてきたのか、全くなんともないのはうれしい限りです。

(でも、多分自意識過剰なのかな、別なことは恥ずかしいしなぁ・・・)

 

魚について、以前この海岸で気がついたことがありました。

魚って、水から揚げて置いてあるのは、すでに魚じゃないかもね、って。

そりゃー、確かに目の前にある銀色の物体は魚かもしれないけれど、

でも、地上にいて、空気の中にいる僕らにとって本当の魚は、

水面を通した中にいて、あまりはっきりしないぼんやりと見える存在じゃないかって。

そうすると、心の中の魚の実感と合うんじゃないかなって。

心の感情の波が強すぎたり、光が強すぎたりするととても見えにくくなってくる

そんなものが魚じゃないかな、と思うこのごろで、その写真を撮ってみたいと思うこのごろです。

 

 

波はやはり不思議だ、

はっきりして、ピントが合っているはずなのにぼやけて見えたり、

何処からやってくるのか分からない薄い光の帯が不自然な方向に動いていたり、

そもそも波自体いろんな波がお互いに意識することなく好き勝手に動いているんだから、

全く始末に悪い、とにかくまだまだ分からないことが多くてボーッとしてしまう。

もう考えることを放棄してしまうしかない。

またいつか分かるようになるかもしれない。

 

 

なんだこりゃ?うへへ、うへへって感じ。

なんだか色つきの包帯が風に吹かれて飛び散っている感じ。

そういえば昔透明人間というのがあったな。

彼、包帯巻いていたっけ?

包帯取ったら中は何にもない、というイメージが焼きついているのはなぜ?

ミイラ男と一緒になってるんだっけ?

あっしまった。

写真逆さま。

これ意図的・・・ちょっと、ざーとらしい。

物が映るためには強い光がさしているということより、光を受けるものがあるということだよね。

 

 

だんだん突端までやってきたぞ。

途中15cmほどの隙間が地震でできていて、結構スリリング。

あっ!薄紫のみずたまり。

たまらないほどの色だなあ。

そういえば、いつか、こんなのに彩雲映したことあったなあ。

 

 

考えてみたら、ここへきたのは自分の頭の影のところから出る光の放射を撮るためだった。

前回、カメラを持たないで来たときにはすごい放射が出てたからな・・・えっ、ない!

こんなに天気がいいのに?

やっぱりわかんない。

何がなんだか、わかんない。

ワッカリマセン

 

2005.06.03.

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