第28回 梅雨は青い帽子をまとって

今年は、なかなか梅雨の雨が降りません。

このままだと、晴れたままで夏至の太陽が拝めそうです。

梅雨に入る前の楽しみはなんといってもその青白い空気です。

 

 

時間がなく、でもこんな天気の写真はいつもは撮れないし、

ということでやむなく教室へ向かう道すがら、しばし車を止めてパチリ。

(仕方がないよね。時間ないんだから。無いよりましだよね)

写真がきれいだ、といっていただく方、期待を裏切ってすみません。

撮りたかったのは梅雨に入る前にしばし訪れる空気の青白い濁りです。

後ろに山みたいに青白くかすんで見えるものは山ではなく、

すぐ近くにある木々の生い茂った小高い丘です。

気の大きさを見てみると分かるかと思います。

空気が濃く色づいているため、間近にあっても遠くにあるようにかすんで色づいていきます。

それどころか10メートルほどの距離にある手前の木でさえ色づき始めています。

世界は全てこの濃厚な空気にすっぽりと包まれているのです。

この現象は梅雨前の数日間に特にはっきりと見られます。

ちょうど梅雨の前線の前に青く輝く帯があるかのようです。

私はこの帯を梅雨の青い帽子と呼んでいます。

 

梅雨の頃に、梅雨がないといわれる北海道で同じような現象に出会うことがあります。

時々濃い霧が出たりもします。

さて、ここまで極端ではないにしろ、普段から、空気がにごっているために、

物が遠ざかると本来の色からはなれ影の暗い部分は青みを帯びていき、

明るい部分は赤みをさしていきます。

私たちの周りには、本当の色なんて存在していないのです。

よく目を見開いて周りを見渡してください。

色彩は本来の鮮やかさを失っているのが分かるはずです。

間に空気があるために色が変わってしまうのです。

 

 

でもこれって残念なことでしょうか、空気があるために、全てがぼやけていくことは。

あるとき思ったことがあります。

山に登りたいと思うのは、山が青い色をしているからじゃないかって。

もし、遠くの山が近くの木々の緑と同じ鮮やかさを持っていたら、

逆に白々しすぎて登ってみたいなんて気持ちは起こらないんじゃないかって。

それでは登りたいと気持ちにさせるのは山そのものよりも、

その山を取り巻いている青い空気の濁り(気持ち?)のせいかもしれないと。

なんだか、禅問答のようになってしまいました。禅問答を続けます。

理屈だけで、もしくは合理性だけで物事を考えていくということは、

遠くにある色づいたものを手元に引き寄せて、

その色合いを取って考えていくということに似ていないだろうか。

必要なことは、そのものをその場に置いた形で感じていくということ、

そのことで、その回りを取り包む空気(感情)も感じていくことができるということではないでしょうか。

 

シュタイナー学校の創設者R・シュタイナーはある講演の中で

「夏は手足を使った修行、冬は頭を使った修行が適する。」と述べています。

夏至はすぐ側まで来ています。

どうも無理をして頭を使ってしまったようです。

恐れるな、曖昧模糊となっていくことを。

感じよう、青い空気を。

そして、その空気を吸い込んでゆっくりと味わおう〜っと。

2005.06.17.

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