第29回 教室の子どもたちとのこと

先日、子どもたちとの教室中に、ある6年生の女の子が言いました。

「先生、今日は見学の子が来てるからハリキッとるね。」

「その子が入るか入らないかで先生の給料(月謝)が変わってくるもんね。」

私「・・・」

 

周りの空気が少し詰まりました。

みんな、ひょっとすると心の中では少し思っていたことかもしれません。

確かに、そういうことを訊くことはある意味失礼なことです。

大人は思っても訊かないでしょう。

でもその子が意地悪で言ったわけではないということも分かります。

また、私に対して気安く言えるという関係があるからこその言葉だとも思います。

 

そう、そのことは私にとって、結構切実な、克服しなければならない問題でもありました。

今私が抱えている経済的な問題、

それに付随して抱えている内面の問題をなどを

5、6年生の子どもたちに話して理解してくれるだろうか、という思いがありました。

でも、もう片方で、話す必要がある、とも思いました。

 

教室の終わりに、ほとんど時間が無くなった中、

「少し話しがある。」と言って、子どもたちに集まってもらいました。

そうでなくても、教室の終わりには円くなってお話をしたり、

リズム打ちをしたり、といつも集まってはいます。

 

数人の子どもは、ちょっとただならぬ雰囲気を感じてはいます。

いつもは、教える先生と教わる生徒という、ある程度距離を持った関係が作られているのですが、

ある意味、その関係を壊した個人的な話を話し始めようとしているからです。

そこで話し始めました。

「ぼくは昔、学校の先生をしとったんよ。」

「エー?ウッソゥ!」

「中学校の先生を3年間だけだけど。」

「エー、どうしてやめたと?」

「せっかく先生になれたのに何で?」

「辞めなくて、先生を続けていれば給料も上がるし、将来安泰、ってわかっとったんやけど。」

「なんで?」(子どもたちの現実的な考え方に結構驚いている私がいる)

「そう、子どもに怒ったり、説経できんかったんよ。」

「エー?マジ?それって、いい先生やん。」(ややうれしい)

 

そこで、時間が来たので先まで話ができませんでした。

ただ、こどもたちは私の防御のない正直な話に、なんらかを感じてくれたのか、

ほかの話をしているときにはついぞ見せたことのない真剣さで訊いてくれました。

<そのとき私は頭をうなだれていた>

 

子どもたちと一歩近づいた気がしました。

人間は、一緒なんだな。

心を砕いて話したら、通じるものがあるのだな、と思いました。

でも、そのためには何らかのきっかけが必要です。

きっかけがなくて、こちらが開いていってもただ場違いなだけです。

そのきっかけは、往々にしてトラブルを含んだ形でやってきます。

教室が終わった後、辺りはなんともいえない夕暮れの輝きが辺りを包んでいました。

 

 

もう何年続けてきたのだろう。

あるときは教室の人数が減ることで、なんともいえない気持ちになってきたり、

ああ、やっぱり自分はだめなんだろうな。と落ち込んでみたり・・・

 

教室の収入だけに自分の収入を頼ると、どうしても複雑な気持ちが残ってしまう。

自分をごまかすことなく、相手に卑屈になることなく、

純粋な気持ちで教室を続けるにはどうしたらいいだろうか。

<それは、教室だけに収入を頼らないこと、教室の人数の増減で一喜一憂しないでいいように>

とペロルを始めたところではありました。

ある頃から思うようになりました。

「自分は一生懸命自分の能力の限りやってみた。」

「でもうまくいかなかった。」

「自分の能力が足りなかったのだろう。」

「これから、うまくできるようになるかもしれない。」と。

なんだか、湿っぽくなりました。

でも、今回は茶々をいれずに湿っぽいままにしておきますね。

こんなこともあります。

2005.07.01.

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