第30回 子どもたちの絵

 

この絵は私の教室に通っている、ある子のお母さんからいただいたものです。

子どもたちの絵、というとついこの絵を紹介することがあります。

もちろん、こどもに「この絵頂戴。」なんて訊きません。

それは、そのこの自意識を過剰に育てるような気がするからです。

願わくば、この文章を子供たちが見ることのないように、と思います。

それは、こどもたちに嘘をついていて、見られてはまずい文章を書いているわけではありません。

ただ、大人からどう見られている、とかいう子どもの自意識をなるべく、刺激したくないのです。

 

そういえば、わたしはませているような、いないような子でした。

ほとんどおぼこいし、身なりは全く構わないセンスのない子だったのに、

科学の友やその他の本を開いては、まず保護者の皆さんへという欄を読んで、

この記事の狙いは何なのだ、ということを理解しようとしていた変なやつでした。

でも、今思うと、子どもの目に触れるところにこんな文章を載せているほうがおかしいですよね。

おかげで、その記事の中に完全に溶け込めない自分をいつも感じていました。

今、きっとこういう人はほかにもたくさんいたのではないか、という気がしています。

 

話が飛んでしまいました。

この絵は4歳ぐらいの幼稚園児が描いたものです。

何かの課題を与えるわけではなく、絵の具を与えて、

濡らした水彩紙の上に思い思いに載せていってもらいます。

よく受けるお母さん方からの質問に「絵を見て子どもの何が分かるのでしょうか。」というものがあります。

私はこう答えます。「絵はその子の心の窓です。」「その子の心がそこにある、と思って見て下さい。」

でも、たいていは理解されません。

目の前にその子の心の世界が広がっていると私は思います。

何かを理解するとか考えるのではなく、

ただただ、その子の世界の中に入り込み、その世界を体験することがどれほど大切なことか、と思います。

そうすることで、子どもの中にある深い、尊い世界が見えてきます。

それは、その子を理解するということ以上のものです。

私は、この絵を眺めているといつも、

黄泉の国の入り口の前に立ったような、なんともいえない気持ちになります。

 

<手前にいろんな色を持った魂的存在がいて、その先に、真っ赤な河が流れている、

それは三途の川といっていいほど人を寄せ付けない非人間的なところがある、

その河の向こうには深い深い黄泉の国が闇の彼方へと続いている。>

なんと深い絵だろうと思います。

私はついぞこのような絵を見たことがありません。

それを、4歳の子どもが描いたのです。

それは、ほとんどがその子の心の中の手前の方に、

ほんの少しの意識の世界があり、

その背後には広大な無意識の世界がある。

無意識の世界は意識の世界への境を越えてその影響を脈々と与えている、

意識はほとんど無意識の永遠の世界に吸い込まれそうになりながら。

 

この子のおかあさんから相談を受けました。

この子の反応がいま一つはっきりしない、

関係性に問題があるかもしれない、と園の先生から言われたそうです。

私は、憤って答えました。

「なに言ってるんですか。自信を持ってください。この子は問題なんかない、

それどころか、あまりに周りを深く吸い込んでしまうから、自分の反応として出てこないだけです。」

高校生になったその子のはなしをあるお母さんから聞きました。

それは、本当にいい子に育った、たくさんの子どもたちの中で、迎合したり、徒党を組んだりせずに、

きちんとした関係を持って、自分でじっくり考えて行動する子になっている。

合掌あるのみです。

この絵を描かせた存在は今、何処にいるのでしょうね。

 

おまけです。

車で走っていてふと気になり引き返して写真を撮りました。

ケヤキの枝が、不思議な若葉の色と伸びを見せています。

夏至の頃に再び芽吹いているような不思議な色合いです。

2005.07.15.

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