第62回 流れ

そう、あれは一番組の旅行のときでした。

うちの地域では昔から近所の一番組で積み立てて、一年に一度出かけます。

私は忙しさにかまけてなかなか出かけられないのですが、

今回は当番ということで、どうしても出る羽目になりました。

私と私の母と珍しく高校生の長男(いつも野球の試合で日曜日が休みの日はほとんどありません)と

中学生の次男の4人で出かけることになりました。

しょっぱなから、倉庫での商品発送が間に合わず、

集合時間に送れて皆さんに迷惑をかける羽目になり、

子供たちからは「あーあ、もーう、みんなに迷惑かけてー。」と言われつつ、

頭掻き掻きの乗車となりました。

とりあえず、ここの人たちは私が子供のころから知っている人たちで、

いや私を子供のころから知っている人たちで、なんとも複雑な感じです。

また、家では母から「いっちょん片付けんね。」(まったく片付けないね)とか

「また忘れちょる。」とか子ども扱いなので(もちろん未熟です、はい)、

子供に対する教育効果は最悪です。

あるときなんか、ゴミ箱の周りにちり紙を散らしている次男に「ちゃんとごみを捨てろ!」と注意したら。

長男からは、

「おいおい。そんなに怒らんでもいいやろう。あんたもよく散らかしてるときあるくせに。」と言われ、

長女からは「偉そうに、ばかやろう。」といって回し蹴りが飛んできます。

いやなことを思い出してしまいました。

バスの最前列に小さくなって座り、大人しく外の景色を眺めていました。

ふだんは自分で車を運転しながら眺めているので、

今日は天国のようです。

おまけに天気はいいし、高いところから眺められるし。

2ヶ月ほど前この地域に台風が通過しました。

風もさることながら、集中豪雨がすごく、朝のたった2時間ほどの雨で、

家の近くの川が堤防を越えてしまいました。

子供のころから、梅雨明けのどんな集中豪雨が来ても、

家の家財を二階に上げて準備しても越えなかった水位をあっさりと越えてしまいました。

9時ごろ福岡に向けて走り始めたときには、道路の周りに土嚢が積まれ(?)、

さらに走ると交互通行になっていて道路と川の境がなくなっていました。

初めて、川が氾濫したことを理解したしだいです。

「越えるって、こんな事なのかなー。」としみじみ思いました。

近くでは車ごと流されてなくなられた方も出ました。

そうこう思いながら、とても朗らかな日、窓の外を眺めていると、なんとも不思議な情景に出くわしました。

道路の隅から光が射してくるように見えているではありませんか。

よくよく見ると、使っていないアスファルトの上に、たくさんの小石が連なっています。

さらによく見ると、歩道にある敷石が強い雨に流されて、

歩道との境にあるブロックの穴のところから出てきたものでした。

もちろんこの写真はそのときに撮ったものではありません。

だって、自分で運転しているならいざ知らず、

バスに「ちょっと止まって!写真撮りたいから。」なんて言えるわけがありません。

いつか写真撮りに来ようと心に深く誓って、再度撮りにきたものです。

アスファルトの暗い色の上に明るい敷石が線を作っている様は、

あたかも右側の木々の中から光が射し込んでいるかのように見えます。

もっと近寄ってカメラを構えてみると、地面にたくさん虹が見えました。

さらによく見るとそれはくもの糸でした。

これはしめた、とカメラを構えて撮ったのはいいのですが、

結局、虹を撮ることはできず、そこに写ったのはただの白い線でした。

このようなことはよく体験します。

猫じゃらしについた朝露が虹色に輝くさまをとろうとしたときも、

どうも虹色に輝く部分がピンボケのようになってしまうのです。

最近では、夕暮れの青い山を撮ろうとしてシャッターを押すのですが、

そこに現れるのは単なる明るい空と色をなさない山のシルエットです。

なんだか、うれしいような気もします。

だって、人間の目にだけ見えて

カメラには写らないものがある、って言うのはすばらしいじゃないですか。

まあ、このようなものまで写すテクニックがあるならば知りたいところです。

別に人間の優位性に固執しているつもりもありませんから。

ある時期、商業写真に興味を持って、本などを買ったこともありました。

私たちが見ている人物のポスターなどの写真がどのように撮られているか、

と言うことを知りたかったのです。

だって、私たちがあこがれる世界が実はどのような光を当てられているのか、

と言うことを知りたかったのです。

それはやはり想像を絶するものでした。

私たちが自然な感じだと思って接しているものは、

実はさまざまな光がいろんなところから当てられた結果だったのです。

それに対して、自然の光は

すべて太陽の光が光源となって世界を一つの関係性にもたらしますが、

人物を太陽の光源、外光を使って、いわゆる自然に見える写真を撮るのは、特に難しいようです。

たぶん私たちが自然に見えると思っているのは自然じゃないのかもしれません。

人間だけは別の光が当たっているように撮らないとだめなのかもしれません。

なんだか話題がまったくちがったほうに向かって嶋しました。

違いついでに、最近(昨日)撮った水の写真を載せますね。

久々、懐かしい水の色合いが感じられました。

私が始めて出した(と言うかこれだけしかありません)

写真のポストカード4枚組みの最初を飾る写真の肌合いに似ているのです。

そう、水は肌合いですね。

きれいな水、濁った水、と言う見方から開放されたら、えもいえぬ世界が現出してきます。

私もいい加減、脱皮しなくっちゃ!?

2006.11.17.

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