第74回 水の心

前回はちょっと調子が悪い、と書いたらいろいろご心配の言葉をいただきました。

自分の書くことに興味を持ってもらえないのではないかと考え始めて

結局ああいう状態になってしまいました。

その間、たまたまいくつかのブログを見ることがあり、

「あっ!いいんだ!自分の好きなこと書けば。」と納得してしまいました

(拝見したブログが好き勝手だった、と言っているわけではありません)。

まっ、当たり前と言えば当たり前なんですけれどね。

ついつい、気を使ってしまうもんですからね。

小さいころから、<私の言うことは聞いている人にとって興味がないかもしれない>

って思い続けてきたことって、やっぱりねー、早々消えるもんじゃないですよ。

開き直りが足りなかったのだろう〜

たいしたことなくったっていいさ〜

じぶんはじぶんでじぶんなんだから(?)

(相変わらず課題は山積。プレッシャーあり過ぎで振り切れちゃったのかも?)

少し膝が治ってきました。

かなり長くかかっています。

結局お医者さんには行かずじまいでした。

本当に久しぶりに走ってみました。

なんとも気持ちがいい感じ、格好はまだ膝をかばっているので、それは無様な感じです。

運動不足のおじさんに見られてもいいよね。

少しでも走れれば・・・ 結構子供のころから故障を重ねてきたので、

あきらめに似た感じは結構経験しています。

そう言えば、一昨年の秋口の無様さと言ったらなかったな〜(腰を痛めたとき)あまりにも無様で不恰好で、

寝返りが打てずに笑いが出るし、トイレが大変でこれまた笑いが出てしまって・・・

(笑うと痛かったので一生懸命にこらえていました。)

行き着くと、笑ってしまうのでしょうか。そのような話をよく聞くような気がします。

さて、少しでも時間があると先ほど述べたように歩こうと思っています。

いえば、最近また海が気になり始めています。

どういうわけか、なんともいえない海のメタリックな表面を感じるのは

どうもこのころではないか、という気がしています。

これまで、たくさんのことを海から教わってきました。

毎回行くたびに何か新しいものを見出させてくれました。

シュタイナーの考え方の中に魂の世界というものがあります。

その魂の世界を表現するのに湖に例えることがあります。

たとえばユングの心理学では無意識への入り口としての象徴として泉が出てきます。

昔は「魂の静寂を、<水に映る月の如し>」と表現していたように思います。

その場合の月ってやっぱり満月でしょうね。

どうして満月なんでしょうね。

半月や三日月が水に映った姿ってあんまり想像しないように思います。

そもそも夜の世界を独特に表現するのは満月かもしれません。

もちろん夜を通して出ているのは満月だけです。

満月の日は夜の世界が何かで満ちているように思えてきます

(それは昔の懐かしさなのか、夢の世界なのか・・・)。

考えてみると満月って結局太陽の光を一番反射している状態なんですよね。

水も何かを反射させる存在ですよね。

反射させること、もしくは透過させることもしくは溶かし込むことで自分自身の存在を明らかにしてくれます。

つまり、自分自身の存在を周りのものを使って表しているということです。

自分の心もこういうものではないだろうか、とずっと考えているのです。

自分の目の前にあるのは単なる川でもなければ海でもない。

目の前に広がるのは自分の心と似たようなものではないか、と。

目の前に心が広がる??

常に外側からの刺激(風)がやってきてその柔らかい襞を荒立てる。

襞はその時その時で周りの景色を映しこみながら繊細な肌を生み出す。

Mensch beseelt und Geiste Wohnung gibt. ( シュタイナー学校の5〜8年生のための朝の言葉の一説)

人間は魂を宿し、霊に住みかを与えます。(人間は湖を宿し、光の反映を宿します)

「そう、目の前に広がるのは世界の感情。波は世界の感情の心の襞」

常に変化していく海の表面を見て歩きながら、その言葉が念仏のように頭の中をぐるぐると回ります。

それにしても、この心の襞は見飽きることがありません。

2007.05.18.

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