88 羊飼い1

今も時々その羊飼いのことを思い出すことがある。その羊飼いは、ずっと昔

今のエルサレムという国の田舎に住んでいた。

家は代々羊飼いの家系で、ずっと慎ましやかな生活を送っていたんだ。

お父さんも羊飼い、おじいさんも羊飼い、そのまたおじいさんも羊飼いって感じで・・・

兄弟はたくさんいたけれど、ある日お父さんが病気でなくなり、

一番上だったその子は小さい兄弟の面倒や羊の面倒、家の面倒を見なきゃならなくなった。

まだまだ、小さかったので羊飼いとしてはまったくの経験不足、

思いもかけぬことから、羊たちを病気で死なせたり、野獣に食べられたりもした。

それでも、がんばって羊たちの世話をし続けた。

その子には、持ち前の力があって、羊たちが何を考えているか分かるようなところがあった。

それで、何とか経験不足を補って羊の世話をし続けることができたんだ。

もちろん朝から晩まで働き通し。

ほかの子たちのように着飾ることもなければ、みんなで遊んだりもしない。

でも、男の子にとってそれはちっとも苦痛じゃなかった。

その子の楽しみは、家での朝の仕事を終えて、荒野に出かけていって羊たちに草を食べさせるときに、

ずっとそれを見守りながら、いろんなことを考えることだった。

だって、ちゃんと仕事をしているっていう安心感があって、

その時間、そこにいて、にいろんなことが流れるに任せることができたから。

時々、羊が邪魔することがあったが、そんなことはなんでもなかった。

大好きな羊たちだったから、その気持ちを羊たちはよくわかっていた。

それと、少し離れた草場に羊たちを連れて行くことだった。

そのときは、2、3日家から離れて野宿する。

しばし、家の雑用から離れて、一人でゆっくりとできる瞬間だった。

特に好きだったのは、夜になって火を焚き、その側で羊たちと肩を寄せ合い過ごすことだった。

もちろん、夜でもほかの動物が来ないかどうか、ちゃんと見張りをしていなければいけないけれど、

その役割を自分の犬に任せ、しばし焚き火の火に見とれることができた。

焚き火の煙の懐かしいにおい、顔にあたる温かみを感じながら、

時々、笛を取り出して、星々に向かってその音を響き渡らせていた。

それは、とくに星が明るく瞬き、その子に語りかけてくるような気がしたときに、

お返しとして答えているかのようだった。

夜も更け、焚き火の火が小さくなると星空はより輝きを増した。

男の子はその星空を眺めながら、まだ地面に残る温かみを感じながら、心地よい眠りについた。

男の子はこの瞬間だけは、自分が羊飼いであること、そして、

日々の大変な仕事のことを忘れることができた。

もちろん、村であったいやなことも。

すべてがこの星空の下で、どうでもよくなってしまっていた。

だから、ちっともさびしくなんかなかった。

その子には、ひとつの願いがあった。

それは、世の中のいろんなことを学びたいということ。

それと、神様について知りたいということだった。

男の子は、仕事の合間のほんのわずかな時間を使って、村の長老のところで字を習い、

そして神様に関する本を借りては夜が更けるまで読むことがあった。

いい忘れたけれど、これもこの子にとってはとても大切な時間だった。

このときも、自分の固くて汚れた身体が柔らかくなって、透明になっていくような気がした。

だから、ほかの大人や子供たちが、自分が大切に思っている本のことを面白おかしく話していたりすると、

とても悲しい思いにとらわれたんだ。

いつの日か、エルサレムに行って神様に使える立派な人たちの元で学んでみたい。

そう思いながら日々を送っていた。

ある日のこと、市場の喧騒の片隅で、男の子は一匹の薄汚れた子羊を見かけた。

その羊は、誰が見ても立派な羊じゃないし、おまけにその毛は薄茶色をしていて、

とても立派な布を織るには毛並みがみずほらしかった。

みんなから、いじめられていたんだろうその羊は、うつ伏せになって遠くをボーっと眺めていて、

男の子が近寄っても、振り向くこともなければ、耳を動かすこともなかった。

男の子はしばらくその羊を眺めていた。そして、つれていたおじさんにいくらするか尋ねた、

もちろん買えるような金額ではなく、諦めて家に帰っていった。

「どうして、あんな羊を買おうと思ったのだろう。」男の子は帰りながらずっと考えていた。

「あんな羊を買ったところで、十分な毛は刈れないし、刈ったところで高く売れるわけじゃない、

せいぜい自分のセータ−を作るぐらいだ。」

「それなのになぜ?」家へ帰っても、そのことがずっと頭から離れなかった。

「もう一生会えないかもしれない。」ふと頭をよぎった。

気がつくと、聖典を買うために自分がこつこつとためていたお金を握り締めていた。

自分でもあきれながら、市場に向かって走っていった。

もう空は暮れかけ満月の月が昇り始め、市の終わりを知らせていた。

市まではそれでも遠い道のりだった、男の子は手にしっかりとお金を握り締め、最後には走り出していた。

のどの奥が焼けるように熱く、息が苦しくてたまらなかった。

それでも足は何かに駆り立てられたようにどんどん動いた。

いつの間にか目から涙があふれ出ていた。

息せき切ってたどり着いてみると、市はすでに終わり人影はほとんどなかった。

男の子は疲れも忘れて、息を切らしたまま、月明かりに照らされた広場を駆けずり回り探した。

そして、見つけた。

手に持っていたお金をその持ち主に渡すと、驚いた顔を尻目にその羊を腕に抱いて家路に返した。

これが、男の子とその羊の出会いだった。

 

2007.12.21.

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