突然、羊飼いなどとわけのわからないお話を書き始めてしまい、
皆さんを面食らわせてしまったのではないか、と思っています。
私にとっても初めてのお話でした。
でも、どうしようもなかったのです。
クリスマスごろから、自分の中に羊飼いの少年が住みついていて、
それを形にしなければという思いにとらわれて、書いてしまいました。
初めは漠然とした全体の筋だけが浮かび、
書いていくうちにそのイメージはどんどん膨らんで具体的になり、
一度で済ませようとしたお話が伸びに伸びて、3回シリーズになってしまい。
最後はクリスマスの光と雰囲気が去っていく前に何とか書き上げてしまいました。
終わって、なんだかしみじみしています。
これは、単にお話が終わったせいだけではなく、
新しい年の始まりとして(旧暦)世界が生まれ変わろうとする雰囲気に包まれているせいでしょうか。
書いたかどうか忘れましたが、中秋の名月の夜私は寝袋を取り出して、自分の家の田んぼに寝てみました。
それは、なんともいえない安心感がありました。
なぜって、どんな変わった行為をしても(私としてはまともな行為なのですが)
その場所から追い出されることはないからです。
自分所有の場所を持つっていいものだなあって時々思います。
そんなとき、私は祖父と彼のみかん畑を思い出します。
彼は、畑の片隅に小屋を立て、
畑の斜面で見つかる石を拾い上げてはそれを石垣のように積み上げ、
斜面の畑を少しでも平らにしようとしました。
その石垣のところにはイチゴが植えられていました。
みかんの木の下にはわらを敷き詰め、歩くとふわふわした感じがしたのを今でも覚えています。
道路で猫がはねられているのを見ると、
祖父が道路ではねられた猫を肥料袋につめては、山に持って行き、
畑の土の中に埋めていたのをよく思い出します。
畑の手伝いにつれて行かされると、
大きくなったみかんの木に周りの世界がすっぽり隠れてしまい、
まったく別の世界がそこにあったような印象が残っています。
自分の畑や田んぼを持っているお百姓さんは自分の場所であるという安心感とともに、
外の世界に引きこもれたのではないか、と思います。
農業のことを英語でアグリカルチャーといい、カルチャーという言葉が入っています。
これは耕すという意味合いも入っています。
カルチャーの中にはカルトという言葉が入っていて、これは宗教儀式という意味合いも入っています。
つまり、お百姓さんは自分の田んぼで宗教儀式をしているようなものかもしれない、とも思ってしまいます。
最近人によく、オープンの居場所の話をします。
私自身、思春期は周りの人たちとほとんど話ができない(女の子とは特に)子どもでしたから、
何かあるとこもっていたのですが、広い世界でこもりたい、という欲求が強く、
人影のない、堤防で遮られた川や海で、佇むことがあまりに多かったように思います。
そうこうしているうちに、自分の趣味が日向ぼっこになっていったように思います。
そう、話が長くなってしまいました。
今は、特に日向ぼっこに最適な季節だな、とよく思います。
たぶん、今は創造性に満ち溢れた光が降り注いできているからなのではないか。
とシュタイナーの学びをして思います。
これから、春にかけて植物を芽吹かせ、葉を広げ枝を伸ばし、
花を展開させていくその力がこの光の中に含まれているのではないか、って思っています。
だから、いろんなことを計画したりするのに最適な季節ではないかって。
長年の日向ぼっこの体験から、ある印象が私にあります。
春の降り注ぐ光は、私の小さいころの母の実家のたたずまいを思い出させ、
夏の輝く光は中高生のころの休みを思い起こさせ、
秋の白い光は自分の生まれる前の昭和大正の武蔵野を思い起こさせ、
冬の重い空と光は御伽噺が生まれたずっとずっと昔を思い起こさせる感じがあります。
まあ、要するに、日向ぼっこが好きだって言うことですよね。
日向ぼっこのコツは(コツなんてあるの?)お日様を見ないということです。
お日様を見るよりも自分の目の前の草や木々を眺めること。
そうすることで、そこに降り注いでくる光をより強く感じることができます。
そのときに感じるのは、単にそこに降り注いできている現実的な光だけではなく、
ずっとその植物たちを育ててきた光やそのほかの光を感じることができるように思います。
人が緑を眺めるのがすきなのは、そんな感じを受け取っているからかもしれません。
まあ、要するに、日向ぼっこがすきだけど、する時間がなくて残念なんです。
日向ぼっこしたいなあ。
あっ、思い出した。
次に書きたいのは、ずっと前から暖めているんですが、虹を見つけた、っていうお話です。
言ったら書けるかな〜?
2008.02.01.