93 記憶が輝き始めるとき

後残すは、つれづれだけ。

いつも第一第三の水曜日の夜から木曜日の昼まではペロルのHPの文章を書くために費やす。

でも子どものころからの性分か、やらなきゃいけないことがあると、ついつい違うものに手が伸びてしまう。

というか、今は、どうしてもほかのすぐにやらなきゃいけない仕事があり、

気がついたときには、いつもぎりぎり、というか時間オーバー。

いったいいつになったら期限がきちんと守れるのだろう。

と思ってしまう(皆さんのんびりマイペースで良いですね、って言っていただくのですが)。

 

室見川河畔の小さな公園のベンチに座りながら、いそいそと文章を書く。

目の前には、お弁当を食べる5人のおじさんおばさんたち。

頭の上には、桜の枝。

つぼみはいよいよパンパンにはれはじめ、緊張がみなぎっている。

もう梅は咲いた。

冷たい風の間から差してくる日の光、それは、遠く過ぎ去ったさまざまな思いを呼び覚ます。

空気も日増しに、心なしか張っているよう。

中には少し酔った春の妖精たちが—春の酔い?花酔い−もう漂っている。

・・・彼らがへんな夢を見させるんだ・・・

旅行の思いは遠くに過ぎ去りつつある。

いや、私がこうして、日々の暮らしに没頭しているときも、この日差しに乗って、その思いが流れてくる。

不思議なことだ。私がこうしている間に、私が出会った場所では、それぞれの営みが続けられていく・・・

 

不思議な日々だった。

そう今思う。

過ぎ去った日々は、あたかも遠くの山が途中の空気の層によって青く輝くように、

時間という層を通して不思議な色に輝きだす。

それは、あたかも印象が時間という私の心の空気を通して色づいているかのよう。

いつだって今は、物質的過ぎて、リアルすぎて、皮をむかれた皮膚のように、あっけらかんとしている。

ノーザンライトを探して、戻る日。

なんとなく、世界は悲しみに包まれていた。

帰りの飛行機の中で、話した日本人は、最後の日にハッキリとオーロラを見たとのこと。

私が諦めて、ホテルの部屋の中から、窓の外を眺めていたときだったんだろう。

とたんに、後悔に変わる。

残念さと口惜しさが押し寄せる。

どうして、私は、メルヘンの小人さんの言うことを聞かなかったんだろうかって

(こんなメルヘンあったっけ?探さなきゃ!)。

「昼間は何をされていたんですか?」と聞かれ「仕事。」って答えた。

相手の目が点になっていても、私の心、此処にあらず。

いつになってもそう。

新たな出来事に対しては、今まで積み上げてきた経験がもろくも崩れ去る。

そして経験の衣服の中に隠れていた、本当の自分が顔を出す。

そして、気づく、いったい自分は、自分の何を鍛えてきたんだろうって。

自分のどこが育ってきたんだろうって。

そのときに相変わらず見え隠れするのは、小さいころから付き合ってきた自分の性分。

傾向性。

まっ、いいか。

新たなことを通して、自分の未発達のところを知るのは。

少なくとも傲慢にはならないかもね。

一人だけの星空。

真上に見える北極星。

一人だけのオーロラ探し。

凍った湖の上をずーっとずっーっと歩く。

人の住む場所の上にかすかに輝く夜空。

うーん、これって自分の傾向なんだろうなあ。

一人で出会ってみたいと思うのは。

昼間、凍った川の上(端のほう)を歩きながら散歩。

途中に、小学校らしきところで子どもたちがたくさん遊んでいる。

昼休みの時間なんだろう。

手に手にそりを持って、小山のうえから滑り降りては歓声を上げる。

ラップランドもこの九州も人の住む場所には違いない。

それぞれ違う言葉を使いながら、お互いが理解しあっていることがとても不思議だと思う。

当たり前のことだけど。

違うのは、朝の通勤時。

朝食を食べる窓の外では、

時折足けりの橇(二枚のスキーの板が固定され、手で支えるところがあり、

足で蹴って進む−図がないとわかりにくいだろうな)とスノーモービル。

携帯は圏外、やっぱりラップランドは違う(実はペロルも圏外になることが・・・)。

 

やっと、ドイツ行きの飛行機の中。

ヘルシンキまでの日本人の波はまた去って、フランクフルトまではまた一人。

フランクフルト空港からニュルンベルクまでの列車は閑散としている。

ドイツの誇るICE、新幹線、正確無比な列車が止まる。

ただでさえ遅く着く列車が、夜の11時過ぎに到着。

前途多難だったなあ。

 

2008.03.07.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です