秋は空が高いといいます。
どういうことだろうかと考えます。
確かに、夏の間地上の近くにあった地方雲(井手命名)が消え去り、
その上に幕のように存在している中間層の薄いリズム雲(井手命名)が
にわかに見えてくるからではないか、と思います。
まさに、地上的なものが開けて、開き(秋)になり、
そこに展開されるうすい雲の層のドラマを見ることになります。
この雲の層は、とても薄いので、瞬く間に変化していきます。
でも、3千メートル以上の場所にあるので、
眺めていてもその動きはほとんど感知することができません。
まさに、目を離した隙に変化している、そんな感じです。
その中の代表的なものがもちろん秋の鰯雲ですね。
私は、サイコロ雲と呼んでいます。
ちょうどさいの目のように縦と横から刻まれているからです。
刻むものはもちろん空に流れる空気が作るリズム(低音の響き)です。
そんな中で、背骨雲(井手命名)を見つけました。
一つの流れがあたかも生きた動物の背骨のように空に浮かんでいました。
テオドア・シュベンクの感じやすい混沌の本の中に、
空気が流れている管の中にいろんな楽器の音を鳴らしてその動きをとらえた写真がありますが、
それは、まさに生き物の背骨の本質だけを取り出したようにしていて、
あたかも響きの生き物のようでとても興味深いのですが、そんな感じです。
同じようなものを砂浜で見つけることができます。
それらの雲たちは時として、とても迫力のある構図を生みだします。
どうして自然の曇ってわざとらしくなく自然で(?)こうも迫力があるのだろうか、とずっと考えていました。
そして、自分なりに気がついたのは、
雲は消失点に向かって遠近法の構図の中にはまっているのだ、
ということでした(わかりにくい表現ですみません)。
簡単に言うと、ある点を中心とした放射状の構図がおのずからできている、ということです。
雲の配列によって、時としてそれはとてもはっきりとすごい迫力であらわれてくることがあります。
これは、長く延びた雲に沿うように太陽の光が射していることによって、
うっすらと雲の影がそれぞれの雲のお尻から伸びています。
雲が遠近的に集まることに関しては、実感としてそれほど難しくないのですが、
太陽の光が自分を通過して反対の方向に集まっていくことに関しては
実感としてとらえるのはとても難しいのはなぜだろうか、と考えます。
考えてみると、地上に住んでいる私たちにとって
光が私たちを通り過ぎていくという体験は少なく、
想像するのはとても困難なことなのかもしれません。
らせん教室で自分の影だけがまっすぐに立っていて、
ほかの影たちが寄り添っているという現象に関して話をして、とても強い抵抗を受けました。
無理もないか、と思います。
自分自身でもこの体験に気がつくまで、とても長い月日が必要でした。
高い所に上ると、地平線や水平線がそれにつれて上がってくるという体験に関しても同じような感じです。
この写真では写真を撮った私はどこにいるかわかりますか?
おまけの写真です。
舟型垂直上昇ロケットの出発前の最終点検中です。
それぞれのロケットエンジンからちゃんと燃焼ガスがきちんと出るかどうか、
念入りに点検しなければなりません。
これから、お客さんを乗せて遊覧飛行に出発しなければいけないからです。
もちろん、出発すると出す燃焼ガスの量は半端ではありません。
遠くから眺めると、数隻ものロケットがそれぞれ色とりどりのガスを噴射しながら静かに遊覧しています。
何とも言えない、近未来的な、レトロな不思議な感じです。
お客は神様たちでしょうか?七福神たちでしょうか?
(すべてフィクションです)
2009.09.18.