昔、ゲオルグ・マイヤーという人の書いた『Optik der Bilder(像の光学)』という本の中に、
「視覚とは受け身のものではなく、自分から何かを出しているような能動的なものである。」
という記述を読んだ時に、なんだか漠然と感じるところがありつつ、
さっぱりわからず、「エッ? 視覚って外からの刺激を受け取っているんじゃないの?」
と思ったことを覚えています。
覚えているということは、わからないなりに、とても気になることがあったということですよね。
アントロポゾフィーを学ぶ時に言語造形というものをやりました。
ルドルフ・シュタイナーの書いた言葉を実際に声に出して練習をすることから始まり、
詩の朗誦の練習をし、最終的には演劇をやりました。
その時に言葉をどこに飛ばすか、ということに意識をさせられました。
ある練習は、一歩、一歩進むように言葉を先に置いていくこと、
ある練習は槍のように、言葉を飛ばすことでした。
槍のイメージは、自分が実際にやり投げをやっていたので、特に掴みやすく、好きなイメージでした。
ちなみに、槍は山なりに投げて、地面に刺さらないと、どんなに遠くに飛んでも失格です。
やりっ放しでは失格です。
言語造形でもキチンと地面に刺すイメージを持っていました。
最初は言葉が前に出ていない、前に出ていないと先生に再三注意をされました。
日本語の特質として、言葉が物質的な塊として前に出ていかないのを自覚しました。
ドイツ語が前に向けて集中してしかも地面に物を置くように語られるのに対して
(いまのドイツ人の中には、そうではなく宙に舞って行く人もいますが、
それでも前に出ている感じはします)
日本語は後ろから語る人に向かってやってくる感じがあります。
その後、言葉の飛ばし方について、それなりに意識するようになりました。
詩を語るときには、語る言葉で世界を作っていくというものでした
(だいぶ前なので、少し脚色が入っているかもしれません)。
語りながら、太陽、星、などをイメージでそこにある場所に置いていくというものです。
その行為をしながら、詩を語っているときに、得も言われぬ臨場感が訪れたことがあります。
語っている世界が、生き生きと目の前に現出して、自分自身がその中にいる感覚でした。
同じようなことを、私たちは絵を見るときに知らず知らずに行っています。
壁にかかっている絵を眺めながら、
私たちは、空はここ、山はここ、木は、草原は、橋は…とそれらのある場所を心の中でイメージしています。
それは、私たちが無意識のうちにしてしまう行為です。
そうしなければ、絵の中のものが、絵の中のものとして見えないでしょう。
私たちは、絵を閉ざされた空間の中に掛けることで、自分の意識を遠くに飛ばすことができるのです。
同じようなことを、実際に目に見える外界の景色に対しても行っていることがわかります。
外の世界は、明らかにそこに存在していると思いがちなのですが、
実は私たちは知らず知らずのうちに空はここ、木はここ、家はここ、海はここと
自分の内側から意識の手がその場所に向かっているように感じます。
話が回りくどく、硬くなってしまいました。
最近半透明なものに対して意識が向かっています。
事の起こりは、トランスパレントの星やローズウィンドウを作ってどう飾ったら美しく透けてくるか?
と考え始めてからのことです。
人の意識が、透けたものを見るときと表面で反射したものを見るときに違うということに気がつき始めました。
そんなことばかり考えながら、ある時、天井近くの窓にはめ込まれたステンドグラスに出会いました。
同じステンドグラスでも、透けて見えるときと、反射するときと、
ちょうど二つの現象が均衡を保っている状態があるということに気付きました。
さらに、<透ける>という意識と<反射する>という意識が、そこにある色合いだけでなく、
色合いの深い質になっているということ、
そして、そのときに、自分自身の意識がそこにある光と同化しているのに気がつきました。
透けているものを見ている意識のときは、自分自身がそのものの本質を貫き、
反射しているときの意識はそのものの表面に触れていることに。
その時の、心の中に起きてくる気持ちが全く違う感じがしました。
透けているときは、自分自身が溶けていく感じ、反射しているときは、自分自身が目覚めていく感じです。
川べりを散歩しながら、川面を眺めてみると、そこには先ほどの二つの現象が現れていました。
それと同時に自分の意識の中にも、反射するものと透過して底が見えるものの二つの意識が、
交錯しているのに気がつきました。
そして、二つのリズムの中に誘われていきます。
水を眺め続けたくなるのはそれゆえなのでしょうか?
何かが深まり輝き始めるのはそれゆえなのでしょうか?
2009.10.16.