富山在住のKさんと世間話をしていて、「富山の祭りで、おわら風の盆に行きたいと思っていたんですがね、どうも観光客が増えたみたいで、もう静かに祭りを見るのはできないと思ってあきらめました。」と話しました。
するとKさんは、「夜中の丑三つ時(と言ったかどうか定かではない)頃になると、観光客もいなくなり、静かな祭りが体験できます。」と話してくれました。
「えっ…」
「静かな祭りが真夜中に体験できる。これは、行かなくては…」
* *
おわら風の盆、何という不思議な響き。
町のどこからともなく若者たちの踊り手の行列が現れ、秋風の吹く街角へどこへともなく消えていく。この情報だけを頼りにレンタカーを借り、近くの特設駐車場からシャトルバスに乗り辿り着いた時は5時過ぎ、街はほんのりと暮れかかっていた。
思っていたよりも大きな町で、そこにはたくさんの人だかりがしていた。情緒のある街並みをたくさんの人の波がうごめいている。私もその一員となり流れの中に入り込む。
踊りがどこで行われているかわからないまま、通りにあった資料館に入り、そこで並びながら紹介の映像を見る。
衝撃的だったのは、その踊り。盆踊り、いや日本の踊りに今まで見たことのない動き。
阿波踊り的なものを想像していた私は、その切れのある、しかし静かな振りに驚いてしまう。かぶっている笠の影響もあって、どこか人間離れしていて、神の手によって操られているかのような印象を与えてしまう。とにかく不思議な動き。
資料館の中で知りえたのは、この祭りが大正後期ごろに、一人の医師の存在によって洗練されたものに改良されたということだった。彼は私財をなげうって、当時の第一線の舞踊家、音楽家、その他の芸術家を招き、おわら風の盆の踊りを変え、おわら節の歌詞を洗練されたものに変えていった。そして、この祭りを一部の上手な人たち、花柳界の物にせずに、町のだれもが関われるものにしていったとのことだった。この不思議な踊り(と私には感じられてしまう)が伝統的なものだけではなく、舞踏家によって創造されたものがそれに加わっていたのだ。しかし、その踊りの深さ、自然さを目の当たりにして、当時の舞踊の、踊りを通り越した、神の世界に辿り着くほどの芸術性の高さ、に改めて驚いてしまった。
それと、この祭りに欠かせない胡弓の存在。
踊り手は若者たちだが、その後ろに三味線の部隊が控え、必ずその中に一台の胡弓が入り、お囃子の音色を何ともつややかな不思議なものに変えていく。
この胡弓が実は昔からあったものではなく、昭和の初期頃(正確に覚えていません)にある人物が、瞽女の弾く胡弓にヒントを得て付け加えられたものだとか。
祭りが生まれ、伝統的に培われる様を垣間見たような気がした。
そもそも、祭りその物が人の手によって創造されていったわけで、そこには個人のかかわりから生じたものが、祭りの伝統の中に組み込まれていったのだろう。
その歴史的過程を見たような気がした。
資料館を後にして、街の人だかりの中へ。
特設会場のステージで踊りがあっているらしい。
<人に見せるだけの物が、祭りの踊りのはずがない。>
そう心に呟きながら、雑踏を歩く。
通りの人だかりの中に囃しの音が聞こえてくる。
人越しに見えてくる、特に男踊りのあのシャープな踊り。
女踊りの不思議な立ち回り。
手のしぐさの美しさ。
街の中の、ご祝儀をもらったお店やお宅の前でふるまわれる踊りであると、後で知る。
「あそこでやってる。あそこでやってる。」と走る人々。
「もう終わっちゃった。終わりばっかしだ。」と愚痴る人々。
「でできて、早く踊っとくれ。」と手を叩いて囃す人々。
ああ、自分ものその中の一人。と複雑な思いを抱える。
妖艶な踊りと打って変わって、踊りの後に笠を取って雑談するあどけない子どもたち。
祭りは11時までとなっていた。
11時でシャトルバスはおしまい。
「夜中もやっているんですか?」
「さあね、やってるかもしれないね。」
尋ねてみても、分らない。
結局残ることに決め、11時過ぎても続く踊りの輪(地踊りと流しがあるらしい。これは地踊りの輪)をはたから眺めつつ時の経つのを待つ。
踊りも更け、あてどなく歩き始める。
ある通りに行きあたる。
道の両側には灯篭が並び、人々は道端で、まだ見ぬ行列を待っていた。
まだこれだけの人々が残っている。
夜中の1時。
一角に踊り手と囃し手が集まり始めた。
傍の縁石に腰を下ろす。
女性は同じ着物ではなく、思い思いの着物を着ている。
笠はかぶっていない。
若者だけではない。
その一団が踊りながら目の前を通り過ぎていく。
その後に続く三味線軍団の力強い響きが耳の前を通り過ぎていく。
胡弓の響きが踊りとお囃子と闇をつないでいく。
とてもカメラには手を伸ばせない深さと敬虔さがある。
突然街の片隅から別のお囃子が風に載って響いてくる。