184 光と色の話・14
「すっかり葉が落ちたね。」

「紅葉が見れなくなって残念だね。」

「落ち葉の舞も終わったし。」

「後は、葉がなくなった、枯れ枝のような木の枝ばっかり。」

「さびしい感じだね。」

ボクは春を感じる

「やっぱりへそ曲がりだね」

へそまがってないし。

葉っぱが落ちると途端に春の日差しがたくさん射してきているように感じるんだ。

葉っぱが付いている時って、とてもきれいだよね。緑色をしているときも、秋に紅葉をしているときも。でも、とても美しいからそのことしか考えられなくなる。

その時に、ああ、葉が落ちたときの感じってどんな感じだろう、なんてあまり想像しないよね。

でも、葉が落ちて、針の枝だけになった木を見ていると、これから先どんな葉が付くんだろうな? とか、どんな花が咲くんだろう? って想像するじゃない。

すると、不思議なことに、その周りに光が降り注いでいるような気がしてくるんだ。そして、とっても懐かしい気持ちになってくる。

自分の子どものころに射していた光を感じるような…

枯れ枝からどんな木が育つだろうかって考えるじゃない。

そしたら、その枯れ枝の周りにイメージの葉や花や、その木が大きくなった姿をつくる。

それって、その木の周りに葉を作るイメージや花を作るイメージが降り注いでいる感じでもある。

春の日差しって、枯れたものを復活させていく日差しじゃない?

だから、枯れた枝を眺めていると春の日差しが降ってくる感じがするんじゃないかっておもうんだ。

「ふーん」

「今回もごまかされているような気がするな。」

はなさかじいさんの話があるよね。

はなさかじいさんが臼の灰を枯れた桜の木にまくと花が咲くよね。

そんなことは実際にあり得ないわけだけど、別の考え方でとらえると、灰というのは、物質的なものが熱を受けて、光的なものに変わったんだ。

だから、光的なものをまくことによって、枯れたものに花を咲かせることが出来るんだ。

灰はその人の考えでもある。イメージでもある。

死んだ物質的なものにその人の考えを関わらせることによって、花が開く。

二つのものが出会って、何かが開示されるっていう感じ。

「へー!はなさかじいさんってそんな話なんだ。」

「どこにかいてあったの?」

・・・・・・

私たちは、はなさかじいさん。

枯れ木に灰をまいて花を咲かせましょう。

そして、世界中を花でいっぱいにしましょう。

かっぽれ、かっぽれ。

お後がよろしいようで・・・

本年もお世話になりました。

来年もよろしくお願いします。

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