秋になり、木々の葉が色づいていく。
黄色やだいだい、栗色に、真紅。
モミジの真っ赤な葉の間で、光を反射している葉が赤紫に輝く。
この赤紫は感じるのがなかなか大変。
同じ場所にたたずみ、同じ場所を
しばらく眺めていないと見えてこない微妙な色合い。
光が反射した場所に気付き、
その場所の色合いを反射していると感じないで
色合いとして眺めた時にはじめて鮮やかに見え始める。
でも見えたときのその色合いの何とも美しいこと!
でも集中を切らすとすぐに色合いを失い、
葉のつるつるした感じの反射に変わっていく。
同じような現象で体験したことがあるのは、
夕方の東京モノレールの窓から見た河口の濁った水。
東京の河口の水は濁っているよね。
でも、濁っているというイメージを払しょくしたら
違う色合いが生まれるかもしれないってふと思って、トライしてみた。
夕暮れの光を受けている波立った
水面というイメージをぼやかして、ただ平面の色合い!
ただ平面の色合い!って念じながら意識を集中させると、
途端に濁った水が極彩色の色のパターンに見え始めた。
それはそれは美しい色合い。うっとりするような。
でも、長くは続かなかった。
しばらくすると、また元の濁った水に変わっていた。
去年の春、桜の咲くころに、
なんだか桜の花びらが紫色のような気がして、
何でかなぁ?何でかなぁ?って思ってて気が付いたんだけど
影になった桜の花びらが紫色に輝いていたんだ。
それも、光を受けている花びらよりも鮮やかな感じさえした。
影になっているものって、
ついつい陰で暗くなっているって思いこんでしまって
そこにある本来の色合いに気付かなくなってしまってるのかもしれない。
影の部分だって、
本当は青空の光が当たっているわけで、
鮮やかな色合いをしているはずなんだよね。
以前、ジェームス・タレルの光の館で天井に空いた
真四角の穴から空を見たときの色合いも
わすれられない体験。
夕暮れの空が真っ青から最後には
濃い紫のじゅうたんのような色合いに変わっていった。
この体験は、その後いろんなところで
見出せるようになった。
ビルで仕切られた夜の空を眺めると
とてもきれいな深い紫色に見えることがある。
コツは空を奥行きのある立体的空間だと考えないで、
ビルの隙間に張られたスクリーン的に、
平面に感じること。
アレキサンダー・ヴィンターさんの
絵のワークショップを体験した時はすごかった。
空が建物で区切られていないのに、
全体がそれはそれは美しい紫色に輝いていた。
見えるって不思議。
反射だと思うことでそこにある色合いが見えなくなっていったり、
影だと思うことでそこにある色合いが見えなくなったり、
遠くまであると思うことでそこにある色合いが見えなくなったり。
思うことで、色合いが抜けていく。
色合いが思うことで世界の様子に変わっているのかもしれない。
でも、思うことで強められていく色合いもある…と思う。
私を取り巻くこの色づいた木々の葉。
冬の間じっとしていたつぼみが、—空気と光は澄んでいた—
光と空気を夢見て、輝く緑色のしぶきを飛ばしながら枝を引っ張り、
夏のお日様の輝きと風に心地よくそよぎながら、光をキラキラと反射させ、—それは笑っているようだった—
いま、もらった光を喜びに変える。
光に心地よく身を透かし、心の底から喜びで温まっている。
光に満ちているのはオレンジ色の葉?
射しているのは私の思い?
色づいているのは私の心?