246 公然と隠された場所
人それぞれ、故郷を離れて、
自分のこども時代のことを、
自分の思い出の中に封印して生きていくことがある。
幸か不幸か、私は、
封印されるべき場所に日々暮らしている。
聖域として、閉じられる場所に。
多くの人が、美しい思い出に
風化させながら、
ガラスの小瓶に閉じ込めて、
押し入れの奥深くにしまいこんだような、
そんな思い出の場所に。幸か不幸か。
故郷の風景には黄金色のメッキが
貼られていく中、日々そのメッキ(鱗)が洗われていく

 

そんな中に、取り残したように残っているものがある。
いつでも、手に届くところにありながら、

日々の日常意識の中から抜け落ちていること。

意識から抜け落ちているから、

普段はそんなものがあることも気づいていない。

まあ、よくあることだけど…
例えば、身近に有名な観光地がある場合、

その近くに住んでいる人は

その場所を訪れたことがない、みたいな。
ちょっと違うかな。

そんなものの一つに祖父のものだった

ミカン畑(みかん山と呼んでいた)だ。

祖父が生きていた時に他の人の手に渡ってしまって

大きくなって行くことはなくなった。

祖父はよくそのミカン山に出かけていた。

もちろん、ミカンを出荷するのが仕事だったから。

私もよく手伝いに連れていかれた。

連れていかれるのは好きではなかった。

通っている学校の側を通らなくてはならず、

友達に見られるのがとにかくいやだったから。

まあ、そのおかげで自分をよく見せようとしない性格も

育ったのかもしれないけど。

ミカン畑の入り口を入ったところの右側には

小屋が建てられていて、

南京錠が掛けられていた。

鍵は小屋の軒先に射しこんで隠してあった。

小屋の中にはスコップや鍬、

鎌などの作業道具が置かれていた。
登ってきた山道とは雑木と杉の木で区切られていて、

周りも木々で覆われていた。

メインの広い場所と、

段々になった狭い場所がその周りに幾つか続いていた。

祖父はそこに来るたびに

畑の中の見つけた石を段の石垣に積んでいた。

段の縁にはイチゴを植えていて、

季節になると赤く色づいた実と

白い実のまだらができ、

赤く色づいた実だけをとるのが楽しみだった。

その場所は、聖域というものを

私に考えさせるのに十分の場所だった。

周りを取り囲まれていて、

視界が閉ざされているのに、

無限の広さを感じさせる空間。

それは、周りを取り囲まれていることによって

起きてくる無限。

日向ぼっこの時の世界の広さにも似た感覚。
日向ぼっこの場所も、広い場所とは限らない。

 

ふと、道を車で走っていて、車を止める。

いつも、通り過ぎていた道に

向かって坂道を歩きだす。
昔は、石ゴロゴロの坂道だったが、

今はコンクリート舗装されている。

思いのほかの急坂。
こんなところを、リヤカーで登ったのだろうか?

坂道を登っていく、
あたりの木は切られていて道が明るい。

ドキドキしながら、ミカン山に近づく。

木々の間から垣間見たものは、

見知らぬ木々が植えられた畑。
そっと、中に入ってみる。

中には、大きくなった、いろんな木が育っている。

柿の木、ヤマモモ、クリの木、

すべて時の流れを感じさせるように大きくなっている。
50年の歳月はこれほどまでに木を大きくするのか!

ミカンの木らしい木が中にいくつかある。

わたしは、過去の記憶像をその木に託そうとする。
ミカン山の思いを歩き回りながら探す。
あれは、思いの中
呆然としながら、たたずむ。
あれは想いの中

祖父は、石を積んでいた。

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