258 追いかけているもの
私が長年追いかけているものに
<遠くのものは付いてくる>という遠近法
虹の現象
それにビルトハフト(Bildhaft)と言う言葉があります。
それぞれ、「もうこれで終わりかな、すべてのことはわかった。」
と思ってしまうのですが、それはもろくも崩れ去ります。
そして、分からないことが生まれてきます。
どうしてこうもまた、分からないことがあるのか、
と後で驚くことしきりです。
ビルトハフトと言う言葉はドイツ語で、
日本語に訳すと<絵として見るように>
<絵のように>と訳される言葉です。
その昔、ボッケミュール先生が福岡に来られた時に
置き土産のようにおいて行かれた言葉です。

シュタイナー教育のベースになっている

アントロポゾフィー(日本語で人智学と訳される)

のセンターがドイツとの国境に近い

スイスのドルナッハにあり、

そこの自然科学セクションの代表のキュールさん

を福岡のらせん教室が呼んで講座をする機会がありました。

その時にボッケミュール先生も

一緒に来られるということでした。

残念ながらキュールさんの方が

肺炎のため来日されませんでしたが(後日お呼びしました)、

その代わりボッケミュールさんと

ボッケミュールさんの奥さんとでとても素晴らしい講座をやっていただきました。

その講座は、福岡市にある海ノ中道の突端の

志賀島で行われました。

一泊二日の講座の中で、

ボッケミュールさん自身で描かれた絵を通しての

認識の講座や目隠しして絵を描くワーク、

それぞれの場所を決めて、

その風景を覚えてきて後で絵を描くワークなどが行われました。

そんな中でのキーワードが

ビルトハフトと言う言葉だったのです。

それ以来、らせん教室の参加者たちは、

事ある毎に、このビルトハフトの言葉を

「あーでもない、こーでもない」と話し合うのが常になりました。

確かに、ボッケミュールさんの講座は

素晴らしいものでしたが、またたくさんの問いも残りました。

周りの世界を絵的にみるとはどういうことか、

それをすることで周りの世界に対する認識が変わる

ということはどういうことか、いろいろと考えました。

そんな中で、少し見えてきたことは、
何かを認識しようとするときは、

一つの対象に向かわなければならないこと。

その対象を、周りのほかの世界から切り離すこと。

そして、そこにかかっている絵のように

眼前の風景を認識すること。

そのことを通して、初めてその世界が

自分に語りかけてくるというのです。

そのために、どこかの場所に出かけて

その場所から見える風景を記憶して、

それを絵に描くということをされたのだと思います。

「描いてみて、記憶に登らない見落としがちなものを

次回の観察するときにより繊細にみることができるようになる。」

と言うことだけでなく、

描くことによってその風景を絵として認識する中で、

よりその場所に入っていき、

その場に働きかけているものを感じていこうという試みなのでしょう。

こう言う風に書いていると、

私自身の趣味である日向ぼっこを思い出します。

何処でもいいから、

人のいない陽だまりの場所を見つけて

そこでお日様の光を浴びながら、

周りの景色をボーッと眺めることを、

以前時間があればやっていました。

最近、時間がなくやらなくなっていました。
時間を作ってでも、積極的にやっていかなくてはいけません。
日向ぼっこの修業に励まなくては…

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