宿を出ると、小川が流れている橋の向こう側の駐車場に向って歩き出した。
すると、向こう岸近くの欄干に肘をついて、タバコを吸っている人に気が付いた。

その人は、いたずらっ子のような目つきで、私を見た。

あの人だ、と私は直感した。

登場!!

私が、「こんにちは。」とあいさつをすると、相手はニコッと笑いながら頭を下げた。

まさか出会えるとは…

さすがにそのことは聞けずに今、宿を後にしたところだった。

それは、5年ほど前のこと、
対岸の駐車場の先にある宿の露天風呂にそのおじさんが無断で入る、という問題がおきていた。

宿の人はそれを何とか止めようと、攻防戦が続いていた。

その後どうなったのだろうと、気になっていたのだが、
さすがに宿の人にも訊けなかった。

「元気だったんだ!」

「今でもお風呂に?」
とそのおじさんに訊きたくなるのを我慢して、
想像に任せるしかない、と車に乗り込んだ。

すると、先ほど歩いてきた橋の向こう側の宿から主人が出てきたではないか。

宿の主人は、何をするでもなく、そこらの木を触っている。

「あっ!」
「お風呂の見張りに出てきたんだ!」
「攻防戦は続いている!」

私は車から再び降り
宿の主人のところに歩いて行った。

主人はそばのアオキの黄色くなった葉をちぎっていた。
「あの…。」
「盗み湯、相変わらず続いているんですか?」

宿の主人は私の質問に驚く様子もなく、葉をちぎりながら、話し始めた。
 

*   *
「掃除をしたりしてもらって、その代わりに認めてます。
まあ、勝手気ままに、自分のやりたい時だけやるという感じですが。」
そう言いながら主人はちぎった葉を後ろ手でくしゃくしゃにする。

「土木作業員なんかやってたんだけど、こらえ性がなく、すぐに仕事を辞めるんです。」
「やったりやらんやったり。」
「それで、年金もほとんどなく、でもたばこのお金はいるもんだから…」
そう話している足元のアスファルトの上に一匹のシジミチョウが止まった。
今までに見たことのない、薄いブルーの美しい色合い…

「母親と兄弟が隣の家に住んでたんですが、二人とも前後するように亡くなってね。姉やほかの兄弟もいるんですが、寄り付かなくて…」
「時々、ご飯食べさせたりもしています。」
「小さいころから知っているから…
ほっとくわけにもいかないし…」

*   *

ひとしきり話をきくと、
挨拶をし、
歩いて橋を渡った。
その時には
もうおじさんの姿はなかった。

車に乗ると、主人の横を通り、
細い道を走らせた。

主人は車が見えなくなるまで、
私を見送ってくれた。

そうだったんだ、私を見送るためにわざわざ出てきてくれたんだ。

おじさんを見張るためじゃなく…

宿屋の主人の透き通るような
静かなたたずまいと、
シジミ蝶の薄いブルーを
残しながら…

2021/09/17 井手芳弘

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