先日、ある方から、
「電柱を眺める修行をしている。」
という話を聞きました。

一年間、毎日、窓から見える電柱を何分間かじっと眺めたそうです。
そして、電柱について発見した様々なことを教えていただきました。
とても専門的なところまで発見されていて、
「ただ眺めるだけでそれだけのことを分かるんだ。」と驚きでした。

ただ、それ以上に驚いたのは、
<観察が修行だったのだ!>
という点です。

私は、木の観察から始まって、様々な植物を観察してきました。

もちろんR・シュタイナーが語っている<物を見る修行>というのは知っていました。

しかし、うかつにもその修行と植物の観察が結びついていなかったのです。  

もしそうだとすれば、私はこれまでたくさんの修業をしてきたことになります。

ホットワラーの水行(人は温泉入浴とも呼ぶ)
お日さまを拝む修行(人はひなたぼっこ、とも呼ぶ)
を続けてきました。

それに植物観察の修業が新たに加わります。

最強です!

「なんとたくさんの修業をして来たことか!」
と驚くばかりです。

その割には、成果はあまり実感できてはいませんが…
多分自分では自覚できないものなのでしょう。

前々回は梅の観察、そして前回はソメイヨシノの話、と花が続きました。
今回もダメ押しで桜についての修業の結果をお知らせしたいと思います。

桜に関してもかなり観察したつもりで、何でも分かったつもりになっていました。

この時期、子どもたちと水彩で桜の絵を描くことが多いのですが、
自分が書いた桜の絵と実際の桜を見てその違いに愕然としました。

わが師(自称)であるボッケミュール氏は
「観察したものを記憶に基づいて描くことで、より観察力が鍛えられる。」
と語っています。

ただただ自分の観察力のなさに驚いてしまいます。

大きな違いは木の幹でした。
自分の描いた絵は一本の幹が上の方で大きく枝分かれしています。
ところが、実際の桜の木のほとんどは根元近くのところからすでに数本に分かれています。

まるでヤマタノオロチです。

どうして早い段階で大きく枝分かれしていくのかわかりません。

良く眺めてみると、その先枝分かれせずに一定距離伸びた後に枝分かれしています。
毎年たくさん枝別れしているはずなのに、どうしてこのリズムなのかわかりません。

これまでそんなことを考えもしませんでした。

その木のこれまでの成長の動きを頭の中で想像しながら作ったりしてみます。

それと、幹と枝は花の塊を支えているイメージを持つことができました。
桜の木の花は全体を一つの大きな塊としてイメージしてみました。

空気のように軽くて淡いピンク色をした灯りの塊が浮いていて、それを枝が支えているというイメージです。
塊が重いから支えているのか、軽いから飛ばないように結び付けているのかわかりませんが、そこにとどめているのは確かです。

それと、桜の花の色は魂の色のようでもあります。

春先のある一瞬の間だけ、炎のように立ち現れてきては消えていきます。
まるで、夕日の赤い色の光を受けて木が輝いているかのようです。

夜桜は妖艶な感じがして人の心を打ちますが、それは魂的なものが強調されているからかもしれません。

昼間の上からの太陽の光に対し、
夜の焚火の明かりは人の顔を下から照らし、人の中に眠る情念的なものを思い浮かばせます。

懐中電灯を下から照らし、「オバケ~」とやるのと似ています。

赤いちょうちんで下から照らされた桜はまさに、魂の色合いを灯しているかのようです。

「うーん、青ちょうちんの店にはあまり行きたくならないのはなぜだろう?」

修行は続きます。

2022/04/15 井手芳弘

つれづれ433 修行パート2」への2件のフィードバック

  1. 赤ちょうちん
    ふらふらふらとすい込まれます。
    井手先生のつれづれにも。

    1. 池田園子様
      つれづれ、吸い込まれていただき、ありがとうございます。
      頑張ります。
      それにしても、なぜ赤提灯には吸い込まれるのでしょうね。
      やはり謎です。

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